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1931(昭和6)年、日本は満州事変をひきおこし、1937(昭和12)年には日中戦争へと戦争をひろげていった。そして、1941(昭和16)年にはまったく勝てる見通しのないままに太平洋戦争に突入した。ドイツ・イタリアもアメリカと開戦し、第二次世界大戦の戦場は世界全体にひろがった。 戦争がはげしくなるにつれて、国民の生活はいよいよ苦しくなった。遠野の人々の生活もしだいに追いつめられていった。青年ばかりでなく、40歳以上までが兵隊として召集されるようになり、農家は働き手を失い、生産は大幅に低下していった。1938年に、政府は国家総動員法を定め、必要な労力や物資を動員できるようにし、戦時の統制経済がはじまった。 米は強制的に供出され、米をはじめ木綿・砂糖・みそなどの日用品が配給制となり、価格も統制されて、商店からほとんど商品がなくなった。わずかばかりの配給物資でも、人々は「欲しがりません勝つまでは」とがまんを強いられた。 |
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多数の青年や学生までが兵隊として戦場に送られたので、労働力の不足が深刻となり、小学校高学年になると「お国のために」と人手の少ない農家へ勤労奉仕をしたり、中学生や女学生は軍需工場などで働かされた。 さらに、政党も解散させられ、戦争に協力する大政翼賛会というしくみがつくられた。人々の生活は戦争一色になっていった。 |
爆撃をうけた岩手県内の都市 ![]() |
1944(昭和19)年のすえから、アメリカ軍はサイパン島から直接、連日のように日本本土を空襲するようになった。 岩手県下のほとんどの都市も空襲をうけ、製鉄所のある釜石市は、はげしい艦砲射撃のため、町のほとんどが破壊された。この艦砲射撃に先だち、釜石市内の小学生は、遠野地方に集団疎開していたが、遠野の各小学校がその宿舎になった。 このようにして、日本の敗北は、だれの目にも明らかになっていたが、日本政府は、降伏をよびかけるポツダム宣言を黙殺して、戦争を続けた。 1945(昭和20)年8月、アメリカは、広島と長崎に原子爆弾を投下した。このため、広島で20万人以上、長崎で10万人以上の市民が犠牲になり、両市は廃墟となった。また、ソ連はヤルタ協定にもとづき、日本に宣戦し、満州や樺太・千島に攻めこんだ。 日本政府は、ついにポツダム宣言を受け入れて降伏することをきめた。8月15日、国民は、それを天皇のラジオ放送で知らされた。 満州事変から15年間も長く続いた戦争は、日本人310万人の戦死者とアジアの人々2,000万人以上の尊い血を流した。こうして、死者総数約6,000万人に達するというかつてない惨害を残した第二次世界大戦は終わった。 |
▼艦砲射撃で破壊された釜石市
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〔尊い犠牲〕 第二次世界大戦では多くの人たちが兵士やその他で犠牲になったが、遠野市では約900人、宮守では約300人が戦病死した。 岩手県内の空爆撃では、死者が約730人、そのうち小学生が約150人といわれる。 釜石の艦砲射撃では死者337人、行方不明12人という記録がある。 |
