1944(昭和19)年の末から、アメリカ軍はサイパン島から直接、連日のように日本本土を空襲するようになった。
岩手県下のほとんどの都市も空襲をうけ、特にも、製鉄所のある釜石市は、はげしい艦砲射撃のため、町のほとんどが破壊された。この艦砲射撃に先だち、釜石市内の小学生は、遠野地方に集団疎開していたが、遠野郷の各小学校がその宿舎になった。
このようにして、日本の敗北は、だれの目にも明らかになっていたが、日本政府は、降伏を呼びかけるポツダム宣言を黙殺して、戦争を続けた。
1945(昭和20)年8月、アメリカは、広島と長崎に原子爆弾を投下した。このため、広島で20万人以上、長崎で10万人以上の市民が犠牲になり、両市は廃墟となった。また、ソ連はヤルタ協定にもとづき、日本に宣戦し、満州や樺太・千島に攻めこんだ。
日本政府は、ついにポツダム宣言を受け入れて降伏することをきめた。8月15日、国民は、それを天皇のラジオ放送で知らされた。
満州事変から15年間も長く続いた戦争は、日本人310万人の戦死者とアジアの人々2,000万人以上の尊い命を奪った。こうして、死者総数約6,000万人に達するというかつてない惨害を残した第二次世界大戦は終わった。
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