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第7章 明治の遠野...歴史的分野

2 産業の発達

商業のまち

 明治になって、交通や物資の運送の制限がなくなると、遠野は、江戸時代よりも内陸と海岸を結ぶ商業のまちとして発展した。市場取り引きも毎日行われるようになり、米穀商・飲食店・海産物商・雑貨商などの商店が立ちならび、ことに旅館業はさかんになった。
 1897(明治30)年には、遠野銀行も設立されるまでになった。
 ▼明治初期の六日町のようす
明治初期の六日町のようす

山名宗真
〔山奈宗真〕
  山奈宗真は、その一生を遠野地方の産業開発に捧げた。かれは明治の初めに牧場経営に乗り出し、乳牛を輸入して酪農業を導入したほか、馬産にも力を注いだ。また養蚕業や製糸業もすすめ、自力で農業試験場をつくって西洋野菜の普及もはかった。
 遠野地方のキャベツ生産は山奈宗真によって始められたという。

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農業の近代化

 山奈宗真などの大きな努力もあり、明治のはじめに、畜産・酪農業がすすめられ、乳牛を飼う農家も出た。
 やがて、馬産が中心となり、遠野は県下でも有数の馬のセリ市が開かれるようになった。
 農家の副業は、江戸時代とあまりかわらなかったが、藍・葉タバコ・養蚕などは、遠野の重要な産業となり、一時は製紙工場も営まれた。
 雑穀類の生産中心だった畑作は、しだいにキャベツなどの高原野菜や西洋野菜も栽培されるようになった。
 ▼馬のセリ市(遠野)
馬のセリ市(遠野)

〔明治5(1872)年の遠野の産物〕
 明治5年の遠野町の産物は、馬・鶏・あひる・米・大豆・大麦・あわ・ひえ・そば・きび・梨・ダイコン・ゴボウ・ニンジン・ナス・バレイショ・切いも・酒・生糸・真綿・絹・藍・わらじ・馬ぐつ・束縄などだった。
 遠野町以外の村の産物には、くるみ・とちの実・ならの実・麻糸・麻布・蕨粉・木炭・鍛冶炭・まき・いのしし・鹿などがある。
 なお、明治5年の遠野町は、農業718戸、商業272戸、職人107戸。雑業38戸であった。(岩手県管轄地誌)

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ひろがる水田

 明治のはじめころ、遠野地方の稲作は、寒冷地であることからしばしば冷害の被害をうけたり、土地をもてば税金がかかると土地の所有を敬遠することもあって、大きな進展はなかった。
 しかし、しだいに農業技術の進歩とともに、用水堰の改修が行われたり、化学肥料も使われるようになり、牛馬耕具も広まっていった。
 明治の中ごろには、栃洞堰が開かれて、江戸時代から「千石の地」といわれていた大日山麓が開田された。また、明治の終わりころ、綾織では、角鼻堰を改修して、湿田の改良事業をすすめ、平地の大部分を水田にした。上郷でも猫川上流にため池が築かれ、開田がすすめられた。
 ▼ひらかれた水田(綾織)
ひらかれた水田(綾織)

 

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遠野市教育委員会・中学校社会科副読本編集委員会