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第2章 古代の遠野...地理的分野

1 大和朝廷時代の遠野

エミシ

 4〜5世紀ごろ、近畿地方には豪族たちの連合による大和朝廷がつくられた。
 奥州市には4世紀代の集落や5世紀後半の前方後円墳があるが、遠野では確認されておらず、大和朝廷の支配が直接及ばない地域だったと考えられる。
 大和朝廷は、支配の及ばない東に住む人々を単に「エミシ」と呼んでいたが、7世紀後半以降、律令国家成立前後から東北地方を「陸奥の国」と呼んでしばしば兵を送り、東北の人々はこれに従おうとせず抵抗した。

〔エミシ〕
 当初は「毛人」、後に「蝦夷」と書く。もとは「強い人たち」「恐るべき人たち」等の意味だったが、次第に東国の人々、支配の及ばない人達を指すようになった。律令国家の東北地方への進出により、辺境に住む国家に従わない、荒ぶる民を表すこととなる。

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多賀城

 大和朝廷は、大化の改新の後、律令政治をとりいれ、全国に国郡制をしき、律令国家となっていく。8世紀になると、律令国家は東北地方に律令政治をおしすすめる根拠地として多賀城を築いた。そして、稲作農民などの移民をすすめるとともにエミシには砂金や馬などを税として納めることを命じた。

「日本書紀」に記されるエミシ
 東夷に日高見の国がある。この国の人は男女とも髪を結いあげ、身にいれずみをし、性格は男らしくたけだけしい…。山に登るときは飛ぶ鳥のようで、草原を走るときは獣のようだ。恩をうけても忘れるが、うらみがあるときには必ずしかえしをする。
日本書紀

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遠野の遺跡

 多賀城の築城と前後する時期の遺跡が、遠野でも確認されている。松崎町の蓬田遺跡は7世紀から8世紀の集落跡で、土器の底にモミの圧痕があるものが出土しており、その頃すでに遠野でも稲作が行われていたことがわかる。松崎町の高瀬T遺跡では、8世紀の墳墓群や9世紀代の文字が墨書きされた土器が発見されており、律令国家と関係のある在地の有力者層が住んでいたと考えられる。
大和政権の東北への進出・・・クリックで画像拡大
ヤマトの東北への進出


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遠野市教育委員会・中学校社会科副読本編集委員会