遠野地方には、縄文時代の遺跡がたくさんある。もっとも古い時代のものは、縄文時代早期の附馬牛町大洞遺跡、遠野町来内の九重沢遺跡、青笹町の権現前遺跡で、およそ9000〜7000年前の土器が出土している。
1997(平成9)年、綾織町新田の猿ヶ石川を北に見下ろす高台から、今から6000年前の縄文時代前期の大型竪穴住居(最大のもので幅5m、長さ14m)18棟の集落跡が発見された。これが綾織新田遺跡である。縄文時代前期の標準的な竪穴住居の3〜5倍もある大型住居が、中央の広場から放射状の位置どりで建っていた。集落の西側からは、踏み固められてできた道路跡も発見された。さらに、住居内の中央には数個の地床炉が縦に並んでいることも判明した。また、遺跡から投網のものと思われる石錘や滑石製の耳飾りが多数出土し、全国でもあまり発見されていない大木3式と呼ばれる土器も多数出土している。
綾織新田遺跡の大型竪穴住居は、猿ヶ石川などで捕獲した川魚を火にあぶり燻製にして保存食品を作ったり、原料の滑石を割ったり、削ったり、磨いたりして耳飾りをつくるなどの加工作業場だったのではないかと考えられている。いずれにせよ、縄文時代前期の遠野人は、大型住居や道路づくり、食料や道具の加工作業などの共同作業をしていたのである。
これまで、縄文時代前期の生活は、小型竪穴住居による集落形成で、新田遺跡に見られる生活スタイルは、およそ4000年前の縄文時代中期を代表する遺跡である青森県三内丸山遺跡のころと考えられていた。
2004(平成14)年、綾織新田遺跡は、このように全国的な視野から見ても貴重な遺跡であることから、国指定史跡として指定された。
1994(平成6)年、附馬牛町張山から青森県三内丸山遺跡と同時代の縄文時代中期〜後期の環状集落跡が出土した。集落中央の広場を囲んでお墓が48基並び、その周辺に竪穴住居などが取り巻いていた。典型的な環状集落である。
土器や石器の出土量はコンテナで200箱を数え、竪穴住居跡も250棟ほど確認された。遺物の中には、遠野の近辺では産出しない黒曜石や新潟県糸魚川で産出されるヒスイが発見されていることから、張山遺跡は、他の地域との交流・交易の範囲が広かったと考えられる。
このほか、遠野地方の縄文時代の遺跡は、張山遺跡以降の後期から晩期にかけてのものも発見されており、縄文時代を通して多くの人々が、この遠野で生活していたことがわかる。 |