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第6章 江戸時代後半の遠野...歴史的分野

1 貨幣経済の発展と一揆の高まり

藩財政のゆきづまり

 18世紀になると、幕府や各藩も経済のゆきづまりをみせはじめた。あいつぐ凶作・ききんと貨幣経済の発達は、米の生産量の少ない南部藩の財政をいよいよ苦しくした。藩は、はじめのうちは収入不足を年貢米のひきあげや御用金のとりたてでまかなっていたが、しだいに武士の資格を売る「売録」や武士の俸禄をへらす「借上げ」をするようになった。
 18世紀の終わりごろ、幕府は南部藩や津軽藩に松前(北海道)出兵を命じた。このころ北海道では、アイヌの抵抗がはげしくなっていた。
 やがて南部藩は、毎年、松前出兵をするようになり、そのための出費がますます藩財政を苦しくした。また、日本近海にしきりに外国船が現れて通商を求めてきていたが、19世紀になると三陸沿岸にも外国船が姿を見せるようになり、遠野にも海岸防備の命令がだされるようになった。

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一揆の高まり

 このように幕府や藩の財政が苦しくなると、年々、年貢の取りたてはきびしくなった。こらえきれなくなった農民は、百姓一揆をおこし、幕府や藩に年貢をまけさせようとした。一揆の多くは、年貢のきびしい取りたてに反対したり、凶作にあたって年貢をへらすことを要求するものだったが、藩の政治のやり方に反対するものや不正をはたらく代官や役人、地主や高利貸に対する一揆もあった。
 このような百姓一揆は江戸時代全体で3,000回もおきているが、その多くは18世紀中頃から後半のものであり、ききんの時は特に多かった。

〔百姓一揆の発生件数グラフ〕岩手県(主に南部領)の一揆の動き
〔百姓一揆の発生件数グラフ〕岩手県(主に南部領)の一揆の動き
(参考)「岩手県農業史」・「森嘉兵衛著作集」第7巻・「百姓一揆の研究」

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寛政の大一揆

 1795(寛政7)年、南部藩は参勤交代の費用や松前出兵の費用を領民の負担でまかなおうとした。2万5千両の新税は、領民の怒りをよんで、寛政7年から8年にかけて、領内20ヶ所以上で一揆がおこった。
 村と村、通と通が呼びかけあうような一揆となり、盛岡城下におしよせた。寛政の南方一揆といわれている。
 藩は、はじめ一揆を武力でおさえようとしたが、一揆のひろがりを恐れて、農民の要求を認めた。
 江戸時代、南部藩は全国の中でも百姓一揆が最も多くおき、時代全体で約150回ほどおきている。おとなりの伊達藩では、わずか5回しかおきていない。
寛政7・8年の百姓一揆
寛政7・8年の百姓一揆

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遠野領内の一揆

 遠野領でも、現在わかっている一揆は、1627(寛永4)年から1847(弘化4)年までに8回記録されている。

遠野領民の一揆
1627(寛永 4)年 新領主直栄の配置に反対
1777(安永 6)年 六度市口銭役一揆
1795(寛政 7)年 重税反対一揆
1796(寛政 8)年 夫伝馬反対一揆
1803(享保 3)年 下郷他借年賦一揆
1810(文化 7)年 遠野通小国肝煎弾刻一揆
1814(文化11)年 上郷村他借年賦一揆
1847(弘化 4)年 六度市下請反対一揆
(森嘉兵衛氏著書より)

《六度市口銭役反対一揆》
 1777(安永6)年、南部藩は遠野の荷役銭問屋の権利を盛岡商人に移し、荷役銭を1駄につき30文から80文に引き上げた。そのため荷駄が減り、遠野の商業が不振となり、駄賃づけによる農民の収入も減った。
 六度市を営んでいた遠野町人を中心に、上郷の村々の駄賃づけ農民は、盛岡城下に強訴しようとした。盛岡南部藩は、この動きを知ると荷役銭問屋の権利をこれまで通り遠野にかえし、荷役銭を30文にもどした。
《重税反対一揆》
 1795(寛政7)年と翌年、上郷の村々の農民が一揆をおこした。
 この一揆は、盛岡南方一揆と呼応しておこったものであり、夫伝馬役やさまざまな税の免税を要求するものだった。
《下郷他借年賦一揆》
 「遠野夜話」によれば、この一揆は、1803(享和3)年、御用金を20年年賦で課したことや、遠野領の各村に対し重税の割り当てを強制したことに反対しておきたものである。
 一揆は、下郷上綾織にはじまり、領内の農民のほとんどが参加するという、遠野の一揆のなかでも最も大がかりなものであった。
 一揆の一隊は北進して附馬牛方面から土淵へ、他の一隊は南方へ向かって小友・来内に向かい、両隊はたいまつをかざし、貝を吹きあい、ときの声を上げながら峠をこえ、青笹の踊鹿に集結したという。
 一揆の要求は受け入れられたが、首謀者の3人は斬罪となり、他の者は所払いなどの刑罰に処せられたという。

享和3年遠野の一揆
享和三年遠野の一揆・・・クリックで画像拡大

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天保の大ききん

 天保のききんは全国的なものだったが、南部藩も被害は大きく、天明のききんにつぐものだった。この時に藩は、財政難のために藩札(藩内でのみ通用する紙幣)を乱発したので、物価は上がり、人々の生活をさらに苦しいものに追いこむ結果となった。
 遠野領でも浮浪者があふれ、多くの餓死者を出した。物価高のために集まる荷物が少なくなり、市場はさびれた。
 天保年間に、南部藩では20回以上もの一揆があった。北上・花巻付近の農民は、伊達藩に越境して一揆をおこすまでになり、人々の間では、藩の政治に対する不信が高まっていった。

〔天保のききんと「藩札」〕
 天保のききんの時、藩は「七福神札」という藩札を発行したが、正貨との交換比りつを引き下げたために急に物価が上がりインフレーションを引き起こした。
 生産が増えないのに、必要以上におかねを増やしたからである。

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遠野市教育委員会・中学校社会科副読本編集委員会