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第6章 江戸時代後半の遠野...歴史的分野

2 産業・文化の新しい動き

新しい産業

 貨幣経済がすすむにつれて、北上産地にも新しい産業が生まれた。製鉄業・牛や馬を使った運送業・炭焼き業・酒造業などだった。これらの新しい産業は、地主や大商人たちによっておこされたが、土地を失った農民たちが、そこで日雇い人夫として働くようになった。
 海岸地方では、早くから製塩業・魚油や魚かすの製造業・輸出用のこんぶや干物などの俵物製造業などがおこっていた。
 藩は、このような新しい産業にも税をかけた。また、つぎつぎに専売品をつくり、専売品を他の藩に売るために運搬することにも税をかけた。また、これらの新しい産業をおこした地主や大商人に献金をさせて、武士にとりたてる「売録」をしきりにおこなった。

▼近江弥右エ門の墓(上郷)
近江弥右エ門の墓(上郷)
南部藩の商業は近江商人によってはじめられた。

 

〔製鉄業〕
 1319(文政2)年に、遠野新町の石懸仁右衛門が大橋山久子沢鉱山の採掘を願い出て、許可されて事業をはじめた。これが釜石鉱山開発のはじまりだった。
 このような動きは、遠野地方にも新しい産業が生まれたことを示しているといえる。

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幕藩体制の批判

 農村で百姓一揆があいついでおきているとき、都市では、貧しい町人が「うちこわし」を行っていた。「うちこわし」は、江戸時代に約400回もおきた。
 また、天保のききんのさなか、大阪で幕府の政治を批判して大塩平八郎の乱がおこった。大塩平八郎は幕府の役人であったから、幕府の動揺は大きかった。
 天保の改革に失敗し、幕府の政治に対する批判が非常に高まり、西日本には、倒幕を主張する藩もあらわれた。
 南部藩の領民の間でも、藩政への不満・不信が高まり、藩主の交替や藩政の改革などを求める動きが活性化し、一揆も大がかりなものになっていった。

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郷校信成校

 18世紀末から19世紀はじめ、江戸を中心に町人文化(化政文化)が栄えた文化・文政時代は、都市の文化が地方にも広がり、地方の文化も活気をおびてきていた。
 このころ、遠野地方でも学問・教育が積極的にすすめられるようになった。
 江戸の儒学者久子永豊が、横田城下に漢学塾を開き、1853(安政6)年には、藩士の子弟のための郷校「信成堂」も開かれた。
 その後、私塾がふえていった。また、同じころ「文武修行宿」が設けられ、全国から文人・絵師などが招かれた。
 寺院が中心になって、読み書きやそろばんを教える「寺子屋」も開かれ、主として経済的に豊かな農民や町人の教育もおこなわれたが、学問と教育の中心は、やはり藩士とその子弟であった。

江戸時代の終わり、遠野では本格的な学問と教育がはじまった。
信成堂の教科書信成堂の教科書の版木
▲信成堂の教科書とその版木

▼久子永豊の墓(万福寺)
久子永豊の墓(万福寺)
▼文武修行宿の看板
文武修行宿の看板

〔久子永豊〕
 江戸に生まれ、漢学・武道・書画に通じていたが、幕末の騒然とした江戸を離れて気仙に住んでいた。
 天明のころから遠野で漢学塾を開いて、その生徒らがのちの郷校信成堂を開設する原動力になった。1847(弘化4)年に没し、万福寺に墓がある。

〔信成堂〕
 1853(安政6)年に開かれた藩士の子弟のための漢学塾だった。そのころ儒学・国学・洋学があり、尊皇論・討幕論などで学問や思想は混乱をしていたため、遠野の人々は学問・教育の必要性を感じたのではないだろうか。信成堂は尊皇論だったといわれている。


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遠野市教育委員会・中学校社会科副読本編集委員会