|
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
![]() ![]()
|
|
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
貨幣経済がすすむにつれて、北上産地にも新しい産業が生まれた。製鉄業・牛や馬を使った運送業・炭焼き業・酒造業などだった。これらの新しい産業は、地主や大商人たちによっておこされたが、土地を失った農民たちが、そこで日雇い人夫として働くようになった。 海岸地方では、早くから製塩業・魚油や魚かすの製造業・輸出用のこんぶや干物などの俵物製造業などがおこっていた。 藩は、このような新しい産業にも税をかけた。また、つぎつぎに専売品をつくり、専売品を他の藩に売るために運搬することにも税をかけた。 藩はまた、これらの新しい産業をおこした地主や大商人に献金をさせて、武士にとりたてる「売録」をしきりにおこなった。 |
|
農村で百姓一揆があいついでおきているとき、都市では、貧しい町人が「うちこわし」にたちあっていた。「うちこわし」は、江戸時代に約400回もおきた。 また、天保のききんのさなか、大阪で、幕府の政治を批判して大塩平八郎の乱がおこった。大塩平八郎は幕府の役人であったから、幕府の動揺は大きかった。 また、天保の改革にも失敗し、幕府の政治に対する批判も非常に高まり、西日本には、倒幕を主張する藩もあらわれた。 南部藩の領民の間でも、藩政への不満・不振が高まり、藩主の交替や藩政の改革などを求める動きも活性化し、一揆も大がかりなものになってきた。 |
18世紀末から19世紀はじめ、江戸を中心に町人文化(化政文化)が栄えた文化・文政時代は、都市の文化が地方にも広がり、地方の文化も活気をおびてきていた。 このころ、遠野地方でも学問・教育が積極的にすすめられるようになった。 江戸の儒学者久子永豊が、横田城下に漢学塾を開き、1853(安政6)年には、藩士の師弟のための郷校「信成堂」も開かれた。 その後、私塾がふえていった。また、おなじころ「文武修行宿」が設けられ、全国から文人・画家などを招いた。 寺院が中心になって、読み書きやそろばんを教える「寺子屋」も開かれ、主として経済的に豊かな農民や町人の教育もおこなわれたが、学問と教育の中心は、やはり藩士とその子弟であった。 |
|
||||||||
