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第3章 鎌倉時代の遠野...歴史的分野

2 交通と文化

交通の要地

 遠野地方は、鎌倉時代以前からすでに内陸地方と海岸地方をむすぶ重要な交通の要地としての発達を見せていたと考えられる。
 遠野で交差するいくつかの街道を海産物や内陸の物資が行きかい、各地から商人たちが集まって市場がたち、それとともに宿屋や湯屋も発達していったようだ。

〔鎌倉時代の遠野〕
 阿曽沼氏の領地になったころ、現在の遠野市街地のあたりは、早瀬川と来内川の合流する川原だった。人家はなく、早瀬川はしばしば氾濫した。
 人家は、松崎の海上・駒木・附馬牛の街道ぞいに多く、五日市は海岸からの物資の市場だった。
 来内川の西は、多賀の里と呼ばれ六日町があって内陸からの物資の市場だった。
 松崎町光興寺に横田城を築いたのは、そこが集落のほぼ中心にあったことや山を背にした城砦としての役割にすぐれていたからであろう。

 附馬牛は、早くから早池峯神社があったために、遠野の人々の信仰の中心になっていたと思われるが、14世紀にはこの地域に大規模寺院の東禅寺が開かれた。
 地頭・阿曽沼氏は、以前からの遠野地方の中心的な産業であった金山開発につとめ、馬産も奨励したと考えられている。

〔附馬牛駒形神社〕
 附馬牛の駒形神社付近は阿曽沼氏の牧場だったと言われ、遠野に駒形神社が多いのは、とくに阿曽沼時代に馬産が進んだことをもの語っていると言えよう。

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鎌倉仏教

 阿曽沼氏とともに家臣とその一族たちが、関東地方から遠野に移住してくるようになった。
 それとともに、鎌倉仏教の一つで、とくに武士の間にひろまったといわれる臨済宗が遠野に伝わり、附馬牛の東禅寺といった大寺院が建てられた。
 さらに、時宗や浄土宗なども伝わり、それらの寺院も建てられるようになった。
 また、阿曽沼氏は、一族の氏神として諏訪神社を建てたと伝えられている。当時、加茂神社や八幡宮の祭礼には、馬場がつくられ競馬(くらべうま)や流鏑馬(やぶさめ)が行われていたと考えられている。

▼東禅寺仏堂跡(附馬牛)
東禅寺仏堂跡(附馬牛)
▼阿曽沼氏の氏神だった諏訪神社(松崎)
阿曽沼氏の氏神だった諏訪神社(松崎)

〔東禅寺〕
 1335(建武2)年ごろ、無尽妙什和尚が開いたと伝えられている臨済宗の大寺院。当時は東北でも瑞巌寺(松島)につぐ規模で、つねに200人の僧がいたという。1958年の学術調査では、東禅寺跡は禅宗建築の代表的遺構を示していることがわかった。
 東禅寺は1600(慶長5)年に戦火で焼失したが、妙什和尚の墓といわれる古碑と南部守行の墓が残っている。

〔阿曽沼氏と寺社〕
 阿曽沼氏の時代に建てられた寺院は、孝安寺・松雲寺・養安寺・西教寺・興光寺・万福寺・積善寺・東禅寺・長泉寺といわれるが、いまは西教寺と万福寺しか残っていない。
 神社では、諏訪神社・加茂神社・神明神社(のちの伊勢両宮神社)・宮代八幡宮・日出神社・胡四王神社(のちの月山神社)などがある。


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遠野市教育委員会・中学校社会科副読本編集委員会