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第6章 江戸時代後半の遠野...歴史的分野

3 藩政の終わり

弘化(こうか)の三閉伊一揆

 1847(弘化4)年の冬、三陸海岸の野田、宮古、大槌通の農民1万2千人が税の減免と藩政への不信を訴えて一揆をおこし、遠野の横田城におしよせた。この年、南部藩は、領内に約5万2千両の新税(軒別銭)を課し、そのうち約1万両を海岸地域に割り当てていた。
 一揆がおこると、南部藩は、一揆が全領域にひろがることやとなりの伊達藩に越訴(おっそ)されることを恐れて、一揆の人々をなだめるとともに、新税の廃止やその他の税の減免などを約束し、一揆をおさめた。
 しかし、南部藩は、一揆での約束をやぶり、その後も増税を中止しなかったので、人々の藩政に対する不満は高まる一方であった。
 ▼弘化の三閉伊一揆
弘化の三閉伊一揆

願い奉り候こと

〔弘化の南部三閉伊一揆〕
 この一揆の指導者である小本村の切牛弥五兵衛は17年間に、南部領内625ヵ村を説いてまわったという。
 早瀬川原の1万2千名の人々は盛岡の役人には足を踏みならして騒ぎ、遠野の役人を通じてのみ交渉をすすめたといわれている。藩への不信をこのような形で表現したのであろう。
 弥五兵衛は、つぎの一揆の準備のため説いてまわっている途中に捕まり、獄死した。

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嘉永の三閉伊一揆

 1853(嘉永6)年、アメリカのペリーが浦賀にきて、幕府に開国通商を要求した。この年、三閉伊の農民は、ふたたび一揆をおこした。弘化の一揆を指導した弥五兵衛の予言どおり、藩の増税と悪政がひきつづき行われたからである。
 「小○」(困る)の旗をおしたて、田野畑村の太助や栗林村の命助らを中心に136村から1万6千人以上が、銃や槍やむしろ旗などを手に参加し、その中には、女・子ども・僧・山伏・浪人もいたという。一揆は、伊達藩に越訴(おっそ)した。
 伊達藩に越訴した一揆の要求は、これまでの税の減免や藩の専売制度に反対するものから、藩主の交替や藩政改革などの政治的なものに発展していった。
 なかでも、三閉伊通の農民を、幕府領民か伊達領民にすることを求める要求は、南部藩の政治に対するはげしい不信・不満をあらわすものであった。
 この一揆は、税の免税などの要求がほとんど受け入れられ、農民の勝利に終わったが、この2度の一揆によって、南部藩のおとろえは、いっそう明らかになった。

嘉永の三閉伊一揆
嘉永の三閉伊一揆

〔「小○」の旗〕
嘉永の一揆は先頭に「小○」の旗をかかげたといわれる。一揆の人々が伊達藩に出した「藩政府改革46ヶ条」には南部藩の悪政があますところなく盛りこまれてある。
 一揆の後、藩の責任者たちは処分され、藩主みずから倹約令を実行する等をしたが、根本的な改革にはならなかった。

〔「三浦命助」〕
嘉永6年の南部三閉伊一揆は、藩が弘化の一揆での約束を破ったことに始まった。
 この一揆の指導者のひとり、三浦命助は栗林村の人で若いときに遠野の寺子屋で学び、青年期には釜石と花巻間で米の仲買い商人をしていた。

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幕藩体制の終わり

 開国の影響がひろがると、全国各地に百姓一揆やうちこわしがかつてないいきおいでひろがった。幕府を批判する声はますます強まり、朝廷をおしたてて欧米の勢力を打ち払おうとする尊王攘夷運動がにわかに高まった。攘夷運動は、欧米の強力な軍事力と戦い、攘夷が実行不可能であることを知った薩摩・長州藩が中心になって、幕府を倒して、天皇中心の政府をつくり、欧米に負けない強国を建設しようとする討幕運動に発展していった。
 1867年、討幕運動が高まると、幕府は、大政奉還を行い、形だけ政権を天皇にかえして引き続き政権をにぎろうとした。しかし、討幕派は、新政府をつくり、王政復古の大号令を出し、幕府領を没収することを決めた。
 そのため、幕府と新政府の対立は決定的となり、1868年、幕府軍と新政府軍の戦争(戊辰戦争)がはじまった。同年4月、15代将軍慶喜は、江戸城をあけわたして降伏した。しかし、北海道では、幕府に味方する一部の武士たちが抵抗を続けた。
 新政府は、これらを武力でやぶり1年半で内戦も終わった。新政府は、江戸を東京と改め、新しい国づくりの改革をすすめた。この改革を明治維新といった。

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遠野市教育委員会・中学校社会科副読本編集委員会