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平安時代になると、朝廷は本格的に東北地方への進出を始めた。エミシたちはこれに強く反抗した。780年にアザマロが起こした反乱は、ついに朝廷軍とエミシ軍の戦争となった。 801年、朝廷は坂上田村麻呂を征夷大将軍とする10万の兵を送り、エミシたちはアテルイをおしたててこれと戦ったが破れた。この戦いの後、朝廷は東北地方の根拠地として胆沢城を築き、さらに志和城・徳丹城を築いて支配地域を北へ広げた。 そして、9世紀のはじめころには、朝廷は東北地方のほぼ全域を支配するようになった。 朝廷は、東北地方にも国や郡をおき、戸籍をつくって納税の義務をおわせ、きびしく税をとりたてた。また、国司には中央の貴族を任命したが、郡司にはエミシたちの豪族をとりたてた。 こうして、反抗していたエミシもしだいに律令制度にくみこまれていった。 |
〔アザマロ〕 〔アテルイ〕 |
坂上田村麻呂の郡は猿ヶ石川をさかのぼって、遠野地方にも入ってきた。それとともに、麻の栽培や養蚕の技術、さまざまな穀物などが入ってきた。そして、遠野地方の人々もしだいに農業にとりくむようになり、穀物も食べるようになっていた。 また、広い山野では牧畜も行われるようになり、土淵・上郷・小友などでは砂金採集がさかんに行われるようになった。 馬と砂金は重要な税でもあった。 |
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朝廷の北進年表
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都の平安文化とともに遠野地方にも仏教が伝えられた。 9世紀のはじめには早池峰山を中心にして、素朴な山岳信仰が行われていたが、9世紀の中ごろには天台宗や真言宗が伝えられ、附馬牛には妙泉寺(みょうせんじ)が建てられた。 遠野七観音がつくられて信仰を集めたのもこのころである。 仏教を政治支配に利用しようすることは、このころの朝廷の重要な方針でもあった。 |
〔早池峰神社〕 〔遠野七観音〕 |
山谷観音(小友) |
鞍迫観音(鱒沢) |
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