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30年近い城代政治の後、1627(寛永4)年に八戸南部氏が遠野に移り、新領主となった。 「女殿様」ともいわれた清心尼は荒廃した寮内の治安回復や町づくりに努力した。仙台領との境界も確定し、金山紛争も解決した。 |
江戸幕府によって、盛岡城を居城とした南部藩は、外様大名とされた。藩主のもとに政治の補佐役として後家門と御三家が置かれた。後家門は南部氏の一族であり、遠野南部氏は、御三家のひとつであった。
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▼遠野の南部氏は八戸根城より移ってきた
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南部領は10郡に分けられ、郡は村に分けられた。また街道に沿って「通」がおかれ、「通」ごとに代官を置いて治めた。 遠野南部氏は、裁判権を認められ、独立した藩とみなされたこともあって、遠野通は、独自に「上郷」と「下郷」に分けられ、それぞれ代官を置いて始めていた。 村には肝煎などの村役人が、町には検断などの町役人が置かれ、これらの役人は、税の取り立てを請けおい、領民の生産活動や日常生活についても指図した。 また、村や町の代表となって、代官や奉行と交渉することもあった。 |
南部氏の支配地の移り変り〔八戸南部〕
鎌倉時代に北奥羽の地頭として赴任した南部氏は、その後各地に勢力を持つようになり、三戸南部というようになった。 |
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女殿様といわれた「清心尼」碑〔清心尼〕
遠野に移ったのは八戸南部22代領主直栄(義)の時だったが、直栄は盛岡に住み、実際の政治は義母の清心尼が行ったという。 |
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横田城を中心にした遠野の新しい城下町もしだいに整えられた。横田城は、カヤぶき屋根に白壁の「大館」であった。城のある鍋倉山をとり囲むようにして屋敷町がつくられた。 城の西側には、桜馬場が設けられた。そして、元禄時代には、城下に入る街道の入り口に下級武士たちの住む上組町・中組町・下組町の同心町がおかれ、町の警備にあたった。また、来内川は、自然の堀の役割をはたした。 そして、領内の市場が城下町に集められて、武士の屋敷町(元町、坂下町、砂場町、石倉町)の外側六日町・新町・一日市町が置かれ、一六市が開かれた。やがて、石町(穀町)・裏町(仲町)がつくられた。大工町は、職人町であった。武家屋敷と町人町の間には、高札場が置かれ、藩からの命令がかかげられた。町人町の外側には、寺院や神社がおかれた。 |
〔城下町遠野の記録〕 1681年(延宝9)年に幕府の巡検があったときの記録がある。それによって遠野の町のようすがわかる。 侍町 7丁 170人ほど ほかに歩行3〜40人 同心町 3丁 同心120人 寺院 10か所 職人は具足屋1人、仕立屋1人、鉄砲屋1人、大工16人、とぎ師2人、木びき7人、鞍師7人、左官4人、さや師2人、染屋6軒、塗師2人 町家 町数5丁 横丁5つ 家数237 人口 男1,003人 女889人 合計1,892人 馬368頭 |
