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第5章 江戸時代前半の遠野...歴史的分野

1 遠野南部氏の政治

新しい領主

 30年近い城代政治の後、1627(寛永4)年に八戸南部氏が遠野に移り、第22代城主 南部直栄(義)が新領主となった。
 「女殿様」ともいわれた先代の清心尼が中心となって、荒廃した領内の治安回復や町づくりに努力した。仙台領との境界を確定し、金山紛争も解決した。
 江戸幕府によって、盛岡城を居城とした南部藩は外様大名とされた。藩主のもとには、政治の補佐役として後家門と御三家が置かれたが、後家門は南部氏の一族であり、遠野南部氏は御三家のひとつであった。

▼遠野の南部氏は八戸根城より移ってきた
遠野の南部氏は八戸根城より移ってきた
 南部領は10郡に分けられ、郡は村に分けられた。また街道に沿って「通」がおかれ、「通」ごとに代官を置いて治めた。
 遠野南部氏は、裁判権を認められ独立した領地とみなされたこともあって、遠野通を独自に「上郷」と「下郷」に分け、それぞれに代官を置いた。
 村には肝煎などの村役人が、町には検断などの町役人が置かれ、これらの役人は、税の取り立てを請けおい、領民の生産活動や日常生活についても指図した。
 また、村や町の代表となって、代官や奉行と交渉することもあった。

南部氏の支配地の移り変り

鎌倉時代に北奥羽の地頭として赴任したと考えられる南部氏は、その後各地に勢力を伸ばし、三戸南部氏と呼ばれた。
 三戸南部氏は江戸幕府によって盛岡10万石を与えられ、八戸南部氏は八戸根城を居城とする2万石が与えられていた。

南部氏の支配地の移り変り〔八戸南部〕

清心尼公の碑

遠野に移ったのは八戸南部22代領主直栄(義)の時だったが、直栄は盛岡に住み、実際の政治は義母の清心尼が行ったという。
 清心尼は、八戸南部第21代領主であった事から「女殿様」とも呼ばれた。

女殿様といわれた「清心尼」碑〔清心尼〕

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城下町の整備

 横田城を中心にした遠野の新しい城下町もしだいに整えられた。横田城は、カヤぶき屋根に白壁の「大館」であり、城のある鍋倉山をとり囲むようにして屋敷町がつくられた。
 城の西側には桜馬場が設けられ元禄時代には、城下に入る街道の入り口に下級武士たちの住む上組町・中組町・下組町の同心町がおかれて町の警備にあたった。また、来内川は自然の堀の役割をはたした。
 領内の市場は城下町に集められて、武士の屋敷町(元町、坂下町、砂場町、石倉町)の外側に六日町・新町・一日市町が置かれ、定期市「一六市(いちろくいち)」が開かれた。市場の発展に伴い、石町(穀町)・裏町(仲町)が開かれた。大工町は、職人町であった。これら町人町と武家屋敷の間には高札場が置かれ、藩からの命令が掲げられた。町人町の外側には、寺院や神社がおかれた。

城下町遠野の記録
〔遠野の城下町の記録〕
 1681(延宝9)年に幕府の巡検があったときの記録がある。それによって遠野の町の様子がわかる。
 侍町 7丁 170人ほど ほかに歩行3〜40人
 同心町 3丁 同心120人 寺院 10か所
 職人は具足屋1人、仕立屋1人、鉄砲屋1人、大工16人、とぎ師2人、木びき7人、鞍師7人、左官4人、さや師2人、染屋6軒、塗師2人
 町家 町数5丁 横丁5つ 家数237 人口 男1,003人 女889人 合計1,892人 馬368頭

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遠野市教育委員会・中学校社会科副読本編集委員会