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建武の新政が2年で終わり、京都の北朝と吉野の南朝の二つの朝廷がならびたつことになった。全国の武士は、領地をひろげるため、南朝か北朝のいずれか有利な方について戦ったため、争乱は全国にひろがり、約60年間も続いた。東北地方でも、豪族たちは国司の北畠氏と管領の斯波氏との争いにまきこまれながら、たがいに領地を奪いあった。 阿曽沼氏は、南部氏に従って南朝方につき、北畠氏と行動をともにして、一時は京都にものぼって足利尊氏を追放するための戦いにも参加した。 しかし、遠野地方も他の豪族との戦いに苦しまなければならなかった。応仁の乱までの間に、阿曽沼領内には三度の大きな争乱があった。 |
〔阿曽沼時代の三つの争乱〕 ○永享事件 ○宝徳事件 |
阿曽沼氏の家臣たちは、館を居城にして小領主となり、領内の開発をすすめたが、このころ下郷一帯の稲作がすすんだ。 また、横田城下を通る商人や物資の動きも活発になった。 生産が高まると、名主や農民は、領主に対抗したり、惣や郷村とよばれる自治的な組織をつくった。 惣では、「老名(おとな)」とよばれる長老を中心に寄合を開き、農業や祭礼を共同で行うようになった。 ときには、領主や役人に対して村や町の生産活動に関することを要求するようになった。 南北朝のころから、遠野の町人たちは市場を通る荷物から税金(荷役銭)を徴収する権利があたえられた。 |
〔遠野町の5カ条の請願〕
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