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第4章 室町時代の遠野...歴史的分野

1 南北朝時代の遠野

南北朝の争乱

 鎌倉幕府が倒れたのち、後醍醐天皇による建武の新政が2年で終わり、京都の北朝(足利氏が天皇を擁立)と吉野の南朝(後醍醐天皇が京都を逃れて始めた)の二つの朝廷が並びたつことになった。全国の武士は、領地を広げるため、南朝か北朝のいずれか有利な方について戦ったため、争乱は全国に広がり、約60年間も続いた。東北地方でも、豪族たちは国司の北畠氏と管領の斯波氏との争いにまきこまれながら、たがいに領地を奪いあった。
 阿曽沼氏は、南朝方につき北畠氏と行動をともにして、一時は京都にのぼって足利尊氏を追放するための戦いにも参加した。
 遠野地方も他の豪族との戦いに苦しまなければならなかった。応仁の乱までの間に、阿曽沼領内には三度の大きな争乱があった。

〔阿曽沼時代の三つの争乱〕
○面懸(つらかけ)事件
 1334(建武1)年阿曽沼氏の留守中に、面懸氏が鱒沢高館を占領し悪政を行ったので、これを討った争乱。

○永享事件
  1437(永享9)年、気仙の岳波氏・唐鍬崎氏と阿曽沼一族の大槌氏が横田城を包囲したが、南部守行の援軍を得て退けた争乱。その後の大槌攻めで守行は戦死した。

○宝徳事件
  1450(宝徳2)年、気仙の葛西家臣の金成氏が遠野領を侵して綾織谷地館を包囲したが、大迫館や達曽部館の援軍を得て退けた争乱。

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自治組織

 阿曽沼氏の家臣たちは、館を居城にして小領主となり、領内の開発を進めたので、本格的な稲作農業が行われるようになったと考えられている。
 また、横田城下を通る商人や物資の動きも活発になった。
 南北朝のころから、遠野の町人たちは市場を通る荷物から税金(荷役銭)を徴収する権利があたえられたのではないかと考えられている。

〔遠野町の5カ条の請願〕
  1. 遠野の市日には七七十里の商人が集まりますが、乱暴者があり、商売のさまたげになります。警護の侍をおいてください。
  2. 町家が困窮して商人宿がなく、そのため商人の往来が少なくなりました。商いの荷馬から役銭を徴収して、町家や商人宿を修復したいのでお許しください。
  3. 湯屋を修理したいと思いますので、市日の荷馬からの役銭の徴収をお許しください。
  4. 商人たちのために神明神社を建てて商売繁盛を祈願したいのでお許しください。
  5. 市日のけんかのけがも薬師にお祈りしてなおりました。薬師堂を建てて無病息災を祈願したいのでお許しください。

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遠野市教育委員会・中学校社会科副読本編集委員会