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第7章 明治の遠野...歴史的分野

3 上閉伊郡役所

行政機関の集中

 大日本帝国憲法が発布された1889(明治22)年の4月、市町村制度が実施され、横田村は遠野町となり、新しく上郷・青笹・土淵・松崎・附馬牛・綾織・小友の7ヶ村が、宮守には宮守・達曽部・鱒沢の3ヶ村ができた。その後、これらの町村は、1954(昭和29)年まで続き、この制度によって現在の遠野市の範囲が定まったのである。
 1897(明治30)年からは、遠野に上閉伊郡役所が置かれ、西は達曽部・宮守、東は大槌・釜石にまたがる広い上閉伊郡の行政の中心地となり、1900(明治33)年までに、遠野には郵便局・警察署・裁判所・営林署・税務署などの行政官庁が置かれた。

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県立遠野中学校

 1901(明治34)年、県立遠野中学校(現遠野高等学校)が、県下で3番目の中学校として、県北の福岡中学校とともに開校された。
 遠野中学校に学ぶ生徒は、沿岸地方を含む広い地域から集まり、遠野は教育の中心地となった。
 また、1907(明治40)年には、当時、県下でもめずらしい女子教育の機関として、女子職業補修学校が開設され、後に、県立遠野高等女学校となった。
 ▼遠野中学校(現遠野高等学校)
遠野中学校(現遠野高等学校)

 

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遠野市教育委員会・中学校社会科副読本編集委員会