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第8章 大正・昭和の遠野...歴史的分野

1 恐慌

深刻な不景気

 第一次世界大戦中に好景気でわいた日本も、戦後は不景気にみまわれ、全国各地に米騒動がおこり、軍隊も出動した。この不景気が回復しないうちに世界恐慌におそわれたため、日本の経済は大きな打撃をうけ不景気はさらにひどくなった。都市では、多くの会社が倒産し、失業者があふれた。
 農村では、農産物が値さがりし、生糸の輸出もへったため、養蚕を行う農家の痛手はとくに大きかった。多くの失業者が農村にもどったため、農家の生活はいっそう苦しくなった。
 1931(昭和6)年と1934(昭和9)年には、東北地方は冷害で大凶作となり、「娘の身売り」が行われるほど深刻な状態になった。1934年の大凶作の時には、上郷や青笹ではほとんど収穫のない農家が多く、その状況が全国に新聞で知らされた。
 授業料を納められない中学生もあり、賃金を支払えない村役場や事業所も多かった。岩手県下には、欠食児童が約1万人もあった。

▼新聞は青笹や上郷の凶作の写真を報じる
新聞は青笹や上郷の凶作の写真を報じる
新聞は青笹や上郷の凶作の写真を報じる

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不景気克服の努力

 ひどい不景気の中で、労働運動や小作争議が高まったが、これらの運動は治安維持法で厳しくとりしまられた。財閥と政党政治家が結びつき、汚職事件もしばしばおき、国民の間には、政党政治や財閥に対する不満が広がり、軍部が政治に進出するようになった。1931(昭和6)年、満州にいた日本軍(関東軍)が満州事変をおこし、日本は国際連盟を脱退して世界から孤立し、ファシズムの道に進んでいった。
 遠野では、不景気克服のための努力が続けられた。冷害をふせぐための農事試験地が開設され、農業の多角化のために農林海産物加工の近代工場もはじめられた。
 また、森林軌道が敷かれて早池峰山麓の国有林資源の開発もすすめられ、製材工場も多くなった。
 また、1936(昭和11)年には、軽便鉄道が国有になり、線路条の改良や仙人峠のトンネル掘削工事もはじめられた。しかし、1937(昭和12)年に日中戦争が始まり、国内は戦争一色となり、工事もとだえがちになった。

▼農事試験地(遠野)
農事試験地(遠野)
〔水稲遠野1号〕
 昭和9年の凶作は冷害であったことから、冷害を防止するために遠野に農事試験地が設けられた。
 稲の品種改良が中心だったが、耐寒品種として「遠野1、2、3、4号」をつくりだすことに成功した。とくに「遠野1号」は県内の冷害地帯に広く栽培された。

▼農林海産物の加工工場
農林海産物の加工工場
▼森林軌道(附馬牛)
森林軌道(附馬牛)

 

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遠野市教育委員会・中学校社会科副読本編集委員会