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明治維新にあって、東北の諸藩は、薩摩や長州藩中心の新政府の藩閥政治に反し、一時は奥羽越列藩同盟を結んで、討幕軍と対立するなどの混乱があった。しかし、まもなく東北の諸藩は、新政府の方針に従うことになった。 遠野では、まず横田城が廃城となった。そして、廃藩置県によって、一時期、遠野に江刺県庁が置かれ、1871(明治4)年には、盛岡県(のちの岩手県)の横田村となった。 |
| 〔秋田戦争〕 奥羽越列藩同盟は戦火から東北を守るというものだったが、やがて薩摩・長州藩などの討幕軍への態度をめぐって、二つに分裂した。そして、南部藩が秋田藩を攻めるというような事件に発展した。 |
明治新政府は、あいついで改革令を実施した。1873(明治6)年の地租改正令は、土地の売買を認め、地価を定めて土地の所有者から地租という税を現金で納めさせた。地租の額は、江戸時代の年貢と変わらぬ重い負担であった。 明治になっても凶作がつづき、商人による米の買いしめから物価の値上がりもはげしかった。 そのため、遠野地方の農民は、新政府に対して税の減免を求めたり、地租改正の検地に反対して、しばしば一揆をおこした。 |
地租改正
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〔明治3年遠野24か村の一揆〕 明治3年、遠野の24か村が新政府に対して一揆をおこした。遠野の村々は、慶応いらいの凶作や商人の買いしめによる米価の高騰に苦しんで、税の減免を願い出ていたが許されなかった。下宮守村では明治6年にも一揆をおこした。これは地租改正に反対するものだった。 |
▼横田村第一番小学校(瑞応院)
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▼岩手県学齢児童就学率の変化
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明治になって、だれでも苗字をゆるされるようになり、職業や住居も自由となった。 1871(明治5)年に学制令がだされた。翌年には、横田村第一番小学校や綾織小学校が設立され、明治10年までにほとんどの村々に小学校が開設された。これらの小学校は、村民によって建築された。 |
▼初期の卒業証書
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〔最初の小学校〕 横田村第一番小学校は大工町瑞応院に開設され、生徒は6〜12歳だった。授業料があり、財産の多少によって25銭、12.5銭、2銭の三段階だった。教師には藩政時代からの信成堂の教授があたったといわれる。 |
藩閥政治に反対し、国会を開き、国民の権利と議会政治の実現を求める自由民権運動は、岩手でもさかんになった。盛岡に鈴木舎定を中心に「求我社」が結成され、同じころ、遠野には「開進社」が結成された。 求我社や開進社で運動した人々は、その後、岩手自由党をつくり、県議会に進出した。遠野の自由民権運動は、山名宗真たちに受け継がれ、中央の愛国社と連携して政治活動をすすめるとともに、地域の産業開発の運動にも取り組んだ。 |
〔開進社の人びと〕 開進社は山名宗真が主唱して結成され、菅沼仙太郎が中心になった。旧士族の人々が集まった。 菅沼仙太郎・脇山義保・高橋沁太郎・柳田豊治・遊田研吉らは県議会に進出し、遊田研吉は衆議院議員にもなった。和田隆秀や柳田豊治は遠野町長になった。山名宗真は産業振興の運動をすすめた。 |
