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第7章 明治の遠野...歴史的分野

1 明治新政府の諸改革

新政府と遠野

 明治維新にあって、東北の諸藩は、薩摩や長州藩中心の新政府の藩閥政治に反し、一時は奥羽越列藩同盟を結んで、討幕軍と対立するなどの混乱があった。しかし、まもなく東北の諸藩は、新政府の方針に従うことになった。
 遠野では、まず横田城が廃城となった。そして、廃藩置県によって、一時期、遠野に江刺県庁が置かれ、1871(明治4)年には、盛岡県(のちの岩手県)の横田村となった。

〔秋田戦争〕
奥羽越列藩同盟は戦火から東北を守るというものだったが、やがて薩摩・長州藩などの討幕軍への態度をめぐって、二つに分裂した。そして、南部藩が秋田藩を攻めるというような事件に発展した。

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地租改正

 明治新政府は、あいついで改革令を実施した。1873(明治6)年の地租改正令は、土地の売買を認め、地価を定めて土地の所有者から地租という税を現金で納めさせた。地租の額は、江戸時代の年貢と変わらぬ重い負担であった。
 明治になっても凶作がつづき、商人による米の買いしめから物価の値上がりもはげしかった。
 そのため、遠野地方の農民は、新政府に対して税の減免を求めたり、地租改正の検地に反対して、しばしば一揆をおこした。

地租改正
日本の動き 県や遠野の動き
1868 元
鳥羽伏見の戦い
徳川氏追討令
南部藩に会津藩追討令
3
五か条の御誓文  
4
  奥羽越列藩同盟を結成する
5
  九条奥州鎮撫総督が盛岡へくる
7
江戸が東京になる 秋田・弘前藩が奥羽越列藩同盟から脱退する
藩論が佐幕ときまり秋田に兵を進める(秋田戦争)
9
会津藩降伏 盛岡藩が降伏する
討幕軍が盛岡を占領、遠野は長野松本藩が取り締る
1869 3
宮古沖海戦 盛岡藩は版籍奉還
遠野は花巻県へ
5
函館戦争終わる 横田城廃城になる
遠野領主南部済賢が小友にひきこもる
6
  南部藩は白石へ転封
南部藩家老楢山佐渡は秋田戦争の責任をとり死刑になる
8
  遠野は江刺県へ
10
  この年に凶作、遠野の村々は県に減租を訴える

〔明治3年遠野24か村の一揆〕
明治3年、遠野の24か村が新政府に対して一揆をおこした。遠野の村々は、慶応いらいの凶作や商人の買いしめによる米価の高騰に苦しんで、税の減免を願い出ていたが許されなかった。下宮守村では明治6年にも一揆をおこした。これは地租改正に反対するものだった。

▼横田村第一番小学校(瑞応院)
▼横田村第一番小学校(瑞応院)
▼岩手県学齢児童就学率の変化
岩手県学齢児童就学率の変化

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学制令

 明治になって、だれでも苗字をゆるされるようになり、職業や住居も自由となった。
 1871(明治5)年に学制令がだされた。翌年には、横田村第一番小学校や綾織小学校が設立され、明治10年までにほとんどの村々に小学校が開設された。これらの小学校は、村民によって建築された。
 ▼初期の卒業証書
岩手県学齢児童就学率の変化

〔最初の小学校〕
横田村第一番小学校は大工町瑞応院に開設され、生徒は6〜12歳だった。授業料があり、財産の多少によって25銭、12.5銭、2銭の三段階だった。教師には藩政時代からの信成堂の教授があたったといわれる。

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開進社

 藩閥政治に反対し、国会を開き、国民の権利と議会政治の実現を求める自由民権運動は、岩手でもさかんになった。盛岡の鈴木舎定を中心に「求我社」が結成され、同じころ、遠野には「開進社」が結成された。
 求我社や開進社で運動した人々は、その後、岩手自由党をつくり、県議会に進出した。遠野の自由民権運動は、山奈宗真たちに受け継がれ、中央の愛国社と連携して政治活動をすすめるとともに、地域の産業開発の運動にも取り組んだ。

〔開進社の人びと〕
  開進社は山奈宗真が主唱して結成され、菅沼仙太郎が中心になった。旧士族の人々が集まった。
 菅沼仙太郎・脇山義保・高橋沁太郎・柳田豊治・遊田研吉らは県議会に進出し、遊田研吉は衆議院議員にもなった。和田隆秀や柳田豊治は遠野町長になった。山奈宗真は産業振興の運動をすすめた。

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遠野市教育委員会・中学校社会科副読本編集委員会