著名人講演会

  
2018年11月7日(水) 岩手県高等学校長協会創立70周年記念式典など  
 15:00〜記念式典と16:00〜記念後援会に参加し、17:30〜記念祝賀会は欠席。会場はいずれもサンセール盛岡
 記念式典はまるで、”M高校のM高校によるM高校のための”式典だった。歴代会長はM高校校長であり、歴代事務局長もM高校事務長が担当する。だから感謝状贈呈の会長5人、事務局長4人は全員M高校に勤務した人たち。現会長ももちろんM高校校長であり、現会長から感謝状が読み上げられ、記念品とともに手渡される。祝辞を述べた来賓も元M高校校長だった人たちであり、仕方がないとはいえ、少々うんざり。
 まあ、記念式典はどうでもいい。今日の目的はIBCアナウンス学院の学院長であり、IBC現役のアナウンサーでもある河辺邦博氏の講演を聴くことだ。演題は「目で話す」
 河辺氏は1949年東京生まれ、大学時代に全国の放送局を片っ端から受験し、最初に合格したのは岩手放送だったという。大塚富夫アナウンサとは同年齢であり、病気がらみの2人のエピソードなどで笑わせる。
 最初は共通語、標準語、方言について。昔本当にあったという方言札(方言を話すとバツとして方言札を首からぶら下げた)、「えんずい」、あるいは「いずい」(居心地が悪い)、恥ずかしいと意味する「しょうす」とは笑止千万の「笑止」だった、ことなど。
 うん?「笑止」は、ある辞書によると、「1ばかばかしいこと、おかしいこと、2気の毒に思うこと、またそのさま」であり、「恥ずかしい」の意味はない。「しょうす」が「笑止」であるというのは少々無理があるのではないか。河辺アナ、その疑問には答えず。
 蜩c國男が唱えた方言周圏論(ほうげんしゅうけんろん)について述べる。京都から同心円状にことば(方言)は伝わるのだという。京都から東北に、九州にと、年速は約1kmだという。京都から盛岡まで約800キロ、となると京言葉(のようなもの)が盛岡は800年を経て伝わってきたということか。
 「かがさる(書かさる)」、「飲まさる」などの「〜さる」について話す。特に「かがさる」について考察するのであれば、芥川賞受賞者・若竹千佐子氏の「おらおらで一人いぐも」にも言及してほしかった。あの作品でも若竹氏は「かがさる」について述べておられる。河辺氏はもしかしたら「おらおらで一人いぐも」を読んでなかったのか。
 「目で話す」は表情も大切であるということ。表情筋は30数種類あるのだそうだ。最近特に女性が常にマスクをかけている人が多くなった。表情を隠したり、気持ちが顔に現れるのも防ぐから安心感があるのだろうが、コミュニケーションからはマイナスである。話しをするときは相手を向く、大勢を前にして話す時はまんべんなく見渡すなどすれば思いが伝わる。
 予定の1時間はあっと言う間に過ぎる。わざわざ遠野から盛岡まで来たかいがあった。蜩c國男の「方言周圏論」について初めて知った。京都から同心円状に、1年に1キロずつ伝わっていった方言が東北と九州じゃ全く違うんでないか、そんな疑問も感じたが、まあ概ね満足のいく講演だった。
 17:30〜記念祝賀会は欠席し(申し込みはせず)、そのまま真っ直ぐに遠野に向かう。 
  
2018年10月21日(日) 第15回市民健康講座 講師・K教授(筑波大学大学院) 
 偉い先生のようだが、変な日本語を平気でしゃべっていた。「健康の秘訣、皆さん知られたいですか」と。
 この「知られたいですか」を2度も使った。最初は何のことかと思ったが、たぶん「知りたいですか」と言いたかったのだろう。「知る」の尊敬語は「知られる」なのか。「知られたいですか」、こんな変な日本語、聞いたことがない。「出席される」、「お見えになられる」、「帰国される」なら分かるが、「知られる」、「知られたい」、「知られたいですか」なんて、聞いたこともない。筑波大学大学院の先生が大勢を前にして言うことか。
 自信過剰の先生のようだ。自分が話している間、聴衆を絶対に寝させないと言う。「もし寝ている人がいたら、壇上から降りて行って肩をたたきますよ」と言う。ときどき、「さあ皆さん、首の体操です。左右に首を動かして下さい。隣の人が寝ていたら起こしましょう」と言う。無視して寝たふりをしていた。そのうち本当に寝てしまった。
 パワーポイントの映像は左右2ヶ所のスクリーンに映し出される。左右に動き回りながら、大きな声で話す。よどみなく話すが、パワーポイントのデータが古い。いくらなんでも2003年の資料を元に話す。「ちょっと古いデータですが」とことわったって、古すぎるよ。
 あのデータの年号を見て、あっ、この教授の話は信用できないなと思ってしまった。どうせ理解できないだろうと思っている節がある。
 高齢者がほとんどの聴衆に向かって「今日は平均年齢が38歳ぐらいでしょう」と言う。何人かが笑っていたが、むしろシラケる。
 「今笑ってくれた人は38人ですね。私はすぐに計算できるのです」。ゴサンパチ(538)のホラという言葉を知らないらしい。   
  
2018年1月13日(土) 地域で子どもを育てる活動発表会 たかまつなな氏の講演会 
 講演の講師は”たかまつなな”という女性のお笑い芸人。高校時代からお笑いを目指し、勉強は嫌いだったと謙遜するが、なんのなんの、自慢、自尊、自賛の雰囲気がぬぐえない女性だと思った。24歳でありながら、現在は株式会社笑下村塾(しょうかそんじゅく)代表取締役社長。
 フェリス女学院高校出身。お嬢様学校と言いたくても言えず、「そうですね、岩手なら盛岡白百合学園高校みたいなとこ」、だって。
 両親も祖父も慶應大学出身で、自身も慶應以外は考えられなかったといい、AOで合格。面接では、清く正しく品格あるお漫談をやって合格したのだ。
 慶應義塾大学大学院に在学しながら、東京大学大学院にも在籍しているのだ。
 高校時代はサッカー、足も速く、もしあのままサッカーやってたら今頃はなでしこの一員だった。
 趣味は登山、筑波山山頂でライブを行ったこともある。
 そして、自慢の極めつけは、昨年11月、NHKから2018年入局の内定をもらったということ。NHK職員とお笑い芸人、順風満帆なのだ。  
  
2015年12月17日(木) 土屋副大臣の講話に参加 区長も動員かけられたということ 
 枯れ木も山の賑わいである。復興視察に来た土屋総務副大臣の講話を聴きに行く。時程表を見ると;
 17:40〜遠野市防災センター着、出迎え 後方支援資料館視察(20分)
 18:00〜懇談、要望書提出(10分)
 18:10〜あえりあ遠野へ移動
 18:20〜19;00講話 演題「地域づくり まちおこし」
 区長会や消防団、自主防災組織、市民団体など120名程度。動員を掛けられたのはこの時間帯だけ。それ以外は市長や主要ポストの部長級職員で対応するようだ。あえりあ中ホールという案内だっったが、参加予定者が膨れ上がり、急きょ会場を交流ホールに変更したようだ。交流ホールも開演10分前には最前列を含めすべて空いている席はなかった。後ろのさらに椅子を並べ座ったようだ。私は前から4列目に何とか座れた。
 土屋副大臣は武蔵野市長として6期22年務めた。その頃から遠野市と交流はあったようだ。武蔵野市の小学生が遠野市に民泊し、遠野市の子どもたちと交流活動も行なった。
 さすがに話術に長けている副大臣。遠野市長や遠野市を最大限持ち上げる。しかし、わざとらしいコメントも。「自然があり、米があり、水がある。エネルギーも観光もある、それが遠野だ。東京よりもずっといい」など、どこに行っても使えるフレーズである。どこに行っても同じことを言ってるんだろうと思う。まあ、こんな場合の地元讃歌は当然か。
 19:10〜土屋副大臣を囲んでの食事会、大臣随行者8名、市からは市長以下部長や室長など、同人数ほど。
 5日の遠野インター宮守インター開通式典には阿部首相が参列したそうだが、防災のまち・遠野市が全国的に注目されているようだ。  
       
2015年12月13日(日)  青木新門氏の講演「いのちのバトンタッチ」を聴く  
 昨日の講演会の感想;
 青木新門は映画「おくりびと」の原作者である。原作となった本は「納棺夫日記」。本木雅弘が本に感銘を受け、青木新門宅を何度も訪れ、何とか映画化の許可を得た。しかし、「やるなら別の作品でやってくれ」。だから映画のクレジット(エンド)ロールに原作者の名前はない。
 そうか、だから映画では主人公(本木雅弘)はチェロ奏者だったのか。演奏活動をしていた東京の楽団が解散、本木は故郷の山形県酒田市に帰る。NKエージェントなる会社の求人広告を見て、訪問、即入社、そして納棺の仕事をするようになった。
 「納棺夫日記」では、富山市で飲食店を経営するも倒産、ふと目にした新生活互助会の求人広告を見て面接、即採用、そんな仕事だとは思わなかった納棺の仕事をするようになる。
 さらに映画は「納棺夫日記」とは結末が違い、本人の宗教観(真宗大谷派)も反映されない映画となった。まあ、原作者であるが、本を原作としたものでもないし、と青木新門はそんなスタンスだったようだ。
 しかし、「おくりびと」がアカデミー賞外国作品賞にノミネートされるやいなや、”原作者”青木新門の身辺があわただしくなる。映画に原作者として名前が載ってはいないが、マスコミ関係が青木新門宅にどっと押し寄せた。ノミネートの後、実際に第81回アカデミー賞外国映画賞を受賞し、第32回日本アカデミー賞最優秀賞作品賞も受賞してしまった。
 死にたずさわる仕事に就いたため叔父から隠坊(おんぼう、差別語、初めて知った言葉)と呼ばれ、親族の恥とののしられた。妻からも納棺師の仕事を辞めるように言われた。「子どもが小学校に上がり父親の仕事を聞かれたらなんと答えるのよ」
 かつての恋人の父親を湯灌した。いわゆるモトカノは涙を浮かべ、寄り添ってくれた。感謝された。納棺夫の仕事を続けようと思った。
 親族の恥とののしった叔父が末期がんで入院する。ざまあみろと思ったが、いやいやながら最後だからと見舞いに行った。「ありがとう」と言って息を引き取った。憎しみが消え、己に対する恥ずかしさを感じた。「ありがとう」で返した。命のバトンタッチである。
 14:00〜15:30の予定を大幅に超え、青木新門の「命のバトンタッチ」講演は続く。何度も係員から「時間です」の紙が出されていたようだ。16時ちょっと前に終わるが、彼のブログに今日の講演会のことが書いてあった。
 「今まで帰りのチケットを手配したことがなかったのに、今回なぜ手配したのか、後悔した。童話「よだかの星」を残した賢治には他者への思いやりがあった」と言いたかったのが話せなかった。帰路の電車の中でも、残念な気持ちを引きずっていた」
 また、「法務局の方も来ておられたので意識して「人権思想の普及はめざましいものがあるが、自己の権利を主張するあまり他人の立場を顧みない自己中心の人間ばかりが増え、新しい差別やいじめなどの社会現象を生んでいる」ということを例をあげて話した」、とも書いている。
 陳腐な表現であるが、笑いと涙の2時間(近く)だった。検索してみたらユーチューブにも今日の講演に近い講演会の様子もアップされている。後でじっくりと見ようと思う。 
   
2013年12月14日(土) 北上市人権講演会 志茂田景樹氏による 「いじめに未来はありません!」  
 11:00〜遠野市営駐車場でY本氏の車に乗り、途中からK池氏も同乗し、北上市のさくらホールへ。ほぼ1時間で会場に着く。北上は遠野より雪が多かった。ザックザクの雪だった。
 事前に予約しておいた弁当を食べ開会を待つ。花巻市や北上市の委員と雑談。場所はさくらホールの楽屋だった。入口2つの側を除き三方が鏡張りだ。
 A藤氏には中ホールを案内してもらう。座席数は450席とか。濃いブルーのシートは背もたれの丸みが特徴的である。座ってみると柔らかい。いくぶんふわふわで快適に座れる。
 さくらホールはガラスエリアが多い。楽器庫や収納庫などもガラス張りだった。何がどんな風に収納されているか外から見えるのだ。これなら、いい加減に雑然と置くわけにはいかない。外から見えるからきちんと整理して収納することになる。
 語尾に「なはん」を付け過ぎる男性の言葉が気になった。「なはん」を付けるのは花巻ことばだ(盛岡もかな)。女性が時々言う「なはん」は風情が感じられるが、男の人が大声で「あのなはん、それでなはん、〜さんがなはん、どこそこでなはん」などと何度となく繰り返すのは、「過ぎたるはなお及ばざるがごとし」。
 13:30〜人権作文コンテスト表彰及び作文発表(朗読)
 14:15〜講演 「いじめに未来はありません!」 講師 志茂田 景樹 氏。直木賞作家でタレント、よい子に読み聞かせ隊長でもある。
 普通、講師の前には演台があるものだ。演台にはのどを潤すコップと水差しがあるのも普通だ。しかし志茂田景樹氏の前に演台はない。ハンドマイクを持ち下を向き加減で、それでも聞き取りやすいしっかりした声で話す。そうか、ファッション全体を見てもらうために演台はないのか。演台があると上半身しか見てもらえない。
 テレビでおなじみの志茂田景樹氏は昭和15年生まれだから73歳。今日のファッションもすごい。染色ヘアに派手なシャツ、赤いジーンズをちょん切った短パンに左右の色合いが違うタイツを履き、靴はショッキングブルー色だ。首にスカーフはなかったが、「これでも今日は少し押さえてきました」、と言っていた。
 氏が小学校、中学校時代にあったいじめについて話す。氏がいじめられていたこと、あるいはいじめっ子が逆転いじめられっ子になったこと、差別のこと、フリースクールで講師を務めた時のこと、その時の子どもの親について、そして25、6年前から服装が変わったことについても話す。契機はアメリカ土産にもらったマリリンモンローの顔がプリントされた2足のタイツだったそうだ。注目され違う人格を得たような気がしたという。
 最後に言う、「いじめに未来はありません!そして、未来にいじめはありません!それが目標であり、そうすることが大人の責務です」 
  
2013年10月21日(月) 鳥越俊太郎の講演会、昨日市民健康講座で    
 第10回市民健康講座、13:30〜ホテルあえりあ交流ホールで
 司会者が声を張り上げる、「それでは鳥越俊太郎先生、よろしくお願いしま〜す!」 会場から盛大な拍手が鳴り響く。タイミングよく鳥越氏が登場する、はずだった。しかし、・・・。鳥越氏が登場しない。どうしたんだろう。拍手は徐々に鳴りやむ。司会者、「通路が長いようですね」、と苦しいコメント。ややあって、鳥越氏、やっと登場する。再び拍手。何か手違いか打合せミス?あるいはトイレにでも行っていたのか。
 まず、遠野市の印象を語る。遠野市がどこにあるのか知らないようだった。
 「新幹線に乗り盛岡で降りた。盛岡から在来線に乗りさらに北に行くのだと思っていたら、また新幹線に乗り新花巻で降りた。少し戻ったようだ。駅から車に乗ってここまで来た。どんどん山の中に入る。まるで秘境に行くみたい(秘境?デスカ)。そして遠野に着いたが四方を見回しても山、山。盆地なんですね、遠野は。
 どこでも近代化が進んでいるが、遠野はどうだろうか。便利な世の中ではあるが、昔ながらの文化や生き方があってもいい。遠野はその両方がある街なのだと思う。古い良さ、昔ながらの文化も失っていない街なんでしょうね」
 鳥越氏は1940年生まれの73歳だというが、まったくそのように見えない。若々しい。体型もすらりとし、髪もふさふさ、滑舌もいい、そしてマイクを握り話す時との立ち振る舞いが絵になる人だ。
 鳥越氏は京都大学文学部を卒業後、毎日新聞社、テレビ朝日を経て、今でもテレビやラジオのコメンテーター、キャスターとして幅広く活躍する。ガンと戦いガンを克服し、自身の体験を公表し、ガン検診の重要性、早期発見の勧めを説く。
 65歳で直腸がんを患い、67歳で肺に転移が見つかった。その後肝臓にも転移が見つかり、これまでに4度の手術を受けた。しかし、克服した。その後は転移もなく順調に過ごしている。がんになって良かったとも言う。

 CSファイナルステージ・パリーグ 楽天8−5ロッテ
 銀次が大当たり、3安打2打点で勝利に大きく貢献した。2アウトから四球を選びその後ジョーンズの逆転ホームラン。最後は田中がしめた。田中の不敗神話は続く。巨人を倒せるのは楽天だけと思わせる十分な強さを見せた。  
 
2011年10月16日(日) 特別講演会 「東日本大震災と教育」 寺脇研 氏 
10:45〜大学の特別講演会、「東日本大震災と教育」、元文科相官僚の寺脇研氏の講演である。文部科学省在任中、いわゆる「ゆとり教育」、「総合的な学習の時間」について積極的に関わってきた寺脇氏である。
 ゆとり教育により本当に児童生徒の学力は落ちたのか。一方的なデータで非難されることが多いが、寺脇氏もそれなら、私もデータを出します。
 2006年の全国学力テストに42年前の問題と同じ問題をいくつか出した。その中で「魚をヤく」の焼くの正解率は1964年が約30%だったのに対し2006年が約70%だった。10の問題が同じ問題だったが、すべて今日の小学生の正解率が高かった。
 もちろんこれをもって今の小学生が昔の小学生より学力が高いと断定するものではないが、ゆとり教育で学力が下がったと非難する人たちも一面的なデータを示して学力低下を叫んでいるにすぎない。
 95年の阪神淡路大震災でも、3.11東日本大震災でも、子どもたちはえらかった。予想外のことに対処できる子どもたちの力は賞賛すべきだ。混乱の中で最初に平常心を取り戻していくのが小中学生、高校生だった。これこそまさに生きる力。
 若者たちを悪くみようと思えばいくらでも悪く見られる。若者たちをよく見ようとすればいくらでも良い面を見つけることができる。子どもたちを悪く言って何かいいことが起こるのか。
 今回の震災で、「奇跡の学校」といわれた釜石市の鵜住居地区にある釜石東中学校がある。釜石東中学校の生徒がいかに避難し、隣接する鵜住居小学校の児童に声を賭け一緒に高台に逃げ、その結果、東中学校の生徒も鵜住居小学校の児童も一人も犠牲にならず、さらには、児童と生徒たちに導かれた多くの幼児、多くの市民の命が助かったことについて、説明する。
 こうして多くの人命を救ったこの防災教育は、群馬大学の片田教授の指導の下に行なわれたが、それが総合的学習の時間での学習活動だったことはあまり知られていない。
 悲劇から子どもたちを守った総合的な学習の時間がこの4月から減らされている。これで本当に良いのか、その議論もしないままに、粛々と新しい学習指導要領が学校教育に入っていっている。
 分かりやすい論理、話し方、説得力。知的レベルの高さを感じさせる講演内容に満足した。わざわざ岩手からきた甲斐があった。 
   
2010年11月9日(火) 黒岩祐治氏講演会 あえりあ遠野で  
 遠野市商工会 商工会法施行50周年記念講演。16:20〜17:30 あえりあ遠野中ホールで。「地域における地方の再生」
 黒岩氏の講演はこれが2度目。最初は10月16日、高校生作文コンテストの表彰式での講演を聴いた時。「共に生きる」がテーマだった。彼は国際医療福祉大学の大学院教授でもあるのだ。
 私は遠野市商工会とは何の関係もないが、先日新聞チラシを見て講演会だけを申し込んだ。講演会の前は総会、講演会の後は懇親会も予定されているようだった。メモを取りながら聞いた講演の内容は以下のとおり。
 ・岩手は何度か来たが、遠野は初めて来た。毎週書いている週刊ポストの原稿、「医療とマスコミ」を新幹線の中で書きながら来た。やっと先ほど送信した。時間はあまりなかったが、カッパ渕に案内してもらった。あそこはフンイキありますねえ。
 ・「メッセージを高める黒岩の法則」を発刊したばかり。母校でもある早稲田大学の院生に講義した内容である。メッセージ力とは「要するに」(英語では、in short、in a word とか、to make a long story short)。メッセージはシンプルでなければいけない。
 ・地域再生には?One Wordで、要するに、Magnet!引きつける力、行ってみたい地域、買い物をしたい商店街、働きたい企業、ひきつけられる人柄、人間性。遠野はマグネット遠野を目指せ。
 ・熊本県の黒川温泉の例。崩壊寸前の温泉地を若者たちが救った。客の目で変えて言った。露天風呂、入湯手形、らしさを形作り、都会にはないマグネット効果により今は繁盛。逆の例は岐阜県鬼怒川温泉。大きな旅館、ホテルが乱立し、まるで都会のよう。
 ・道路や橋、ハコモノを作っても地域の再生にはつながらない。国は本州四国連絡橋も3つも作った。四国の人たちは、これで本州から客がわんさと押しかけると喜んだ。しかし最初だけ。人口は逆に四国から本州に流れた。鳴戸市は今さびれている。海ほたるにより木更津も同様の人の流れが顕著である。
 ・マグネットの正体は「らしさ」。遠野はすごいマグネットを持っている。日本のふるさと、遠野物語、民話、語り部、伝承、祭りなど。柳田邦男に感謝しなくちゃ。遠野市のメインストリートは「らしさ」がない。蔵の道も歩いてきたが、あそこはいい。
 ・私はミュージカルのプロデュースも行っている。遠野物語のミュージカル上演などはいいマグネットになる(遠野物語ファンタジーのことはご存じないようだった)。
 予定の時間はあっという間に過ぎた。終わって早速、氏の最新本、「メッセージ力を高める黒岩の法則」を買う。黒岩氏が一冊一冊に購入者の名前を入れ、自身のサインも入れてくれた。私は名刺を差し出した。国際医療福祉大学の名刺を見て、「えっ、大田原市から来たんですか」。「いえ、遠野に住んでおりまして、大学には時々行くぐらいです。先月は作文コンテストの表彰式にも参加しておりました」。黒岩氏の方から握手してくれた。  
  
2010年3月14日(日) 小谷実可子の講演を聴く  遠野アエリア交流ホール  
 遠野市教育文化振興財団35周年記念事業記念講演会
 「母から教えられたこと、子どもに伝えたいこと」
 講師はアーティスティックシンクロコーチ、スポーツコメンテーター、日本オリンピック委員など、広く活躍する小谷実可子氏。妻であり二児の母でもある。
 入場無料であるが整理券がそれほどさばけてないという。「行ってくれませんか」と知人。高橋尚子や上村愛子なら喜んで行くのだが、トウのたった小谷実可子じゃあんまり行きたくもないが、まあ人助けと思って、行ってみようか。
 開演5分前に入場するが、やはり両脇の方に空席が目立つ。前から2列目の右端の椅子に座る。
 遠野市教育文化振興財団(仰々しい名称である)会長挨拶の後、小谷実可子のシンクロ演技の映像がスクリーンに流れた。ソウルオリンピックで銅メダルを獲得した時の映像のようだ。
 最初、花が邪魔でスクリーンがよく見えなかった。最前列に座っていた副市長が途中で立ち上がり、アエリアのスタッフに花の位置をずらすように指示したようだ。すぐに2人の男性が壇上にあがり花を少し後ろに移動する。これで右側の観客席からもよく見えるようになった。
 しかしホテルアエリアの男性スタッフは気が利かない。ビデオ映像が終わっても花を元の位置に戻すことはしなかった。写真から分かるように花は少し不自然な位置にある。後で副市長からホテルアエリアにきついお咎めがあるぞ、きっと。
 小谷実可子の講演は1時間ジャスト。シンクロを始めた幼児の頃から、各種大会で優勝する小中学校時代、アメリカに留学した高校時代、そしてソウルオリンピックで銅メダル2個(ソロとデュエット)、バルセロナオリンピックでは結局試合に出られなかったことなど、時折、姉や母とのエピソードを交えて、時には軽妙に時には重々しく、話術に長けた小谷の講演は聴衆を飽きさせない。
 何度も言った「私はシンクロの天才」。その後に挫折の経験(有名な、あの奥野とのバトル)を言い自分の驕りを反省するのかと思った。しかしそんな流れにはならなかった。「自分は天才」は本気でそう思っていたようだ。アメリカから帰国後、大会で思うように点数が上がらなかったのも「審判を変えるべきだ」。これも本心だったのだろう。
 次は政界進出か。  
   
2008年9月27日(土) 鹿糠さんの講演、「私の見た南極」を聴く
 鹿糠さんは久慈市侍浜の出身で29歳、岩手日報報道部に勤務する。担当は以前は教育、今は県政や環境。第49次南極観測隊の報道記者の応募に手を挙げ、厳しい審査を経て、ただ1人選ばれた報道記者として約4ヶ月間(昨年11月〜今年3月)、第49次南極観測隊に同行した。現地からの記事や写真は岩手日報だけではなく、全国の新聞社に送ったのだという。
 講演会では南極で着用した防寒具に身を包み、暑いと言って途中で脱ぎティーシャツ姿になったが、約1時間、動画を含む映像をまじえて、楽しい講演をしてくれた。子どもたちが飽きるのではという心配もあったが、そんなこともなく、クイズや動物の動画などを含む、楽しい講演会だった。
 興味深かったこと。オーロラの写真は珍しくないが、動画で見るオーロラは短い時間に色や形や大きさが次々と変わっていった。オーロラは動くものだったのか。息を呑むほど美しいシーンだった。
 南極観測船として最後の航海となった「しらせ」が、氷を割って突き進む雄姿、暴風圏で大きな波をかぶり大きく揺れる動画、南極の動物たちも印象に残る。特にペンギンの群れが移動するシーン、何匹かがこけるシーンでは会場が笑い声に包まれた。
 最後にアイスボックスから南極の氷を取り出し、グラスに入れ水を加える。コップの淵を耳に当てると何万年も氷に閉じ込められた南極の空気がはじける音が聞こえるという。終わってからも子どもたちは南極の氷を手に取って見たり、保護者も質問に行ったりと、大人気の鹿糠さんであった。
 鹿糠さんには久慈勤務の時も何度かお世話になり、今回また松園でも縁があった。また鹿糠さんのお父さんにも仕事上、久慈ではお世話になった。本当にありがとうございました。
     
2008年9月20日(土) 齋藤重信氏の講演を聴く 大船渡市で 
 第85回全国高校サッカー選手権大会決勝のダイジェストシーンをステージ上の画面で流す。10分ほどに編集したものだった。前半は0−0で終了。後半、先取点は岡山の作陽高校だった。このシーンに、あ〜とため息が漏れる。盛商同点のチャンスに林くんがPKをはずすシーンにも、あ〜。
 しかし同点ゴールのシーンには拍手、そして残り5分ぐらいで逆転のゴールにはさらに大きな拍手が沸き起こる。そして2−1で試合終了、齋藤監督の優勝インタビューと続く。テレビの録画を編集しなおした映像はステージ上の大画面に国立競技場の熱気が伝わってくるようだった。あの感動がよみがえってくる。
 その後に齋藤重信氏の講演が始まる。時々ユーモアを交えて、なかなか聴かせる内容だった。
 齋藤氏は大船渡高校に平成3年から9年間勤務した。その間、現・鹿島アントラーズの小笠原を育て、全国選手権大会にも出場した。今日の講演会には当時の保護者らも多数参加していたようだ。氏は言う、「当時の保護者の皆さんもおられますが、私はあの時、大船渡には3、4年テキトーに勤務して、すぐに盛商に帰りたいと思っておりました」。笑い声。
 以下、氏の語録。
 「大人が夢を持って一緒に行動できなければ子どもは夢を持てない。夢は押し付けるものではない」
 「夢を達成できなくてもプロセスが大事。夢を持つことは大事なのだ」
 「サッカーが続けたくて浪人した生徒がいた。一浪の後、東北大学に合格した」
 「競技の技術を持ってなければ指導者になれない。これは嘘。指導者は人間を育てるのだ」
 「創造性豊かな、行動力のある人、楽しさ、悲しみ、喜びを共有できる人が指導者の条件。カリスマ性があればよい」
 「映画『プライドインブルー』に感動した。画面に向かって頑張れと叫んでいた」
 「料理は得意だ。子どもたちは私が作った料理を美味しそうに食べ、妻が作った料理には箸をつけようとしなかった」
 「喉頭がんで声帯を摘出した。病気を悲観的にとらえてはいけない。サッカーをやっていればまだ元気」
 「負けた試合を分析しない。どうして負けたからではなく、どうすれば次に勝てるかだ」  
 
2008年11月26日(水) 教育勅語を読んでみたが。。 
 ある周年行事に行われた記念講演を聴く。演題は「温故而知新、今、教育勅語を読む」だった。明治23年に公布され、昭和23年に排除、失効したという教育勅語を初めて読むことになった。チンオモウニワガコウソコウソウクニヲハジムルニ・・・。死んだ父親もよく暗唱していたものだ。
 教育勅語の12の徳目とは、
 @父母に孝行し(孝行)、A兄弟仲良くし(友愛)、B夫婦は調和よく協力しあい(夫婦の和)、C友人は互いに信じ合い(朋友の信)、D慎み深く行動し(謙遜)、E皆に博愛の手を広げ(博愛)、F学問を学び手に職を付け(修学習業)、G知識を養い才能を伸ばし(智能啓発)、H人格の向上につとめ(徳器成就)、I世のため人のため進んで尽くし(公益世務)、Jいつも憲法を重んじ法律に従い(遵法、今で言うコンプライアンス)、Kもし非常事態となったなら、公のため勇敢に仕え(義勇)、このようにして天下に比類なき皇国の繁栄に尽くしていくべきなのだ。なるほど、なるほど。
 しかし、神が天皇を創ったなど天皇崇拝、有事の際はお国のために戦えなど、問題点ありとされ、新たに制定された教育基本法に精神を移し変え、昭和23年、教育勅語の役目は終わったという。
 温故知新、教育勅語から学ぶものとは、現代にも通じる12の徳目のことだった、のだろう。しかし、60周年の式典後、60年間封印された教育勅語を今さら読んだってなあ、と思う。日の丸をバックに教育勅語を読む異様な講演会。そんな風にしか見えなかったな。講演者はこれまでも何度かその講演を聴いたことのある人。まあ、初めて教育勅語を読む機会を与えてくださった講演会と捉えよう。 
  
2007年10月6日(土) 収穫祭と盛岡二高110周年式典 小柴昌俊氏の講演会 
 秋晴れ。
 午後1時〜、110周年記念式典に参加する。記念講演は02年にノーベル賞を受賞した小柴昌俊氏だった。超の付く著名人だ。ニュートリノ天文学の研究でノーベル物理学賞を受賞したバリバリ理系の博士。失礼ながら盛岡二高の記念講演と結びつかない。どんなツテでこの講演会が可能になったのか。二高の女子生徒が小柴氏の講演についていけるのか。
 協賛会長の講師紹介挨拶で初めて分かった。小柴昌俊氏の奥さまが二高の卒業生だったのだ。会場内あちこちから、えーとかあーとか声が出た。奥さまももちろん会場におられた。大きな拍手で紹介されていた。ちなみに小柴氏の長男も物理学の大学教授なのだそうだ。
 ニュートリノとは一言で言うと、中性な、つまり電荷を持たない電子のこと。電荷をも たないから電気や磁気の力を受けない。核力(強い力)も感じないからほとんど物質と相 互作用しない。それで地球でも星でもすいすい通り抜ける。ニュートリノはありふれた粒子で、太陽、地球内部、原子炉などから放出されてあたりを飛び交っている。超新星が爆発するときにもニュートリノが放出される。それを初めてとらえたのが、小柴氏らの建設 した「カミオカンデ」検出器であった。
 語り口はやさしいが、内容は難しい。プレゼンテーションも大学などで使ったものなのか、英語で書かれたものも多い。ハブル(バブルではない)の法則、チェレンコフ光の輪、超新星、μ(ミュー)型ニュートリノ、反電子ニュートリノ、地球内部のトモグラフィー、β(ベータ)崩壊のニュートリノ、ニュートリノ振動、大マゼラン星雲の爆発、μ粒子、カミオカンデなど。
 我々一般人には難しすぎる。もちろん二高生にもちんぷんかんぷんだろう。小柴氏も、誰も分からないだろうと思いながら話しているのではないか。予定より10分遅れて2時25分から始まった講演会。終わりも10分遅れて3時55分までと主催者は考えたのだろうが、それが小柴氏に伝わっていなかったようだ。3時40分頃に、小柴氏、「あと5分のところで合図があるはずなんですが、まだ時間大丈夫なのでしょうか」。そして「ご静聴ありがとうございました」のスライド。 
  
 2005年9月4日(日) IBC神山浩樹アナウンサー講演を聴く(昨日)
 昨日3日(土)、第24回社会参加と自立・就学啓発推進の集い(盛岡会場)に参加。午後はIBCアナ神山浩樹氏の講演だった。演台は「出会いから感じた大切なこと」。IBCアナとして障害者と接した経験などをユーモアを交えて熱く語ってくれた。
 神山氏は1967年(昭和42年)10月26日生まれ、花巻北高校、福島大学を卒業後、IBCに入社。アナウンサー歴16年、現在は「ラジオ330」等を担当する人気アナである。気象予報士であり、宅建士、防災士の資格も持つ。趣味はヨガとか。多才な人であり、努力家であるようだ。
 さすがに話をするプロである。大きな声で分かりやすい。手もよく動く。事前に障害(者)についていろいろ調べてきたようだ。LD(学習障害)、ADHD(注意欠陥多動性障害)の違いもまだきちんと把握できていないようだったが、時々原稿に目を移しながら、聴衆を飽きさせない講演をする。「そう言えば周りにもいるなあ。ひょっとして自分もADHD?」。
 取材で耳の不自由な人たちを紹介したことについて話した。関係者に手話の出来る人が少なくて残念だと言われ、手話の本を2冊買ってすぐ勉強したと言う。時々手話も入れるサービスぶり。また、ある時は、目の不自由な人に桜の美しさを伝えたいと思ったが何と言っていいのか分からなかった。先輩女性アナのコメントに助けられたと言うが、先輩女性アナとは村松アナのこと?
 ラスト近く、躁うつ病の女性からの手紙を紹介した時に感極まって泣いてしまった神山氏。演技ではなかったと思う。キーワードは「いっしょに」だった。「就学啓発推進の集い」のまさにテーマとなる言葉である。
 テレビやラジオで時々見たり聞いたりする神山氏であるが、昨日の講演で彼の人柄が少し分かったような気がする。熱き心を持った温かい人。リスナーに共感し一緒に泣いたり笑ったり出来る人。専門外の障害(者)の講演のためにも一生懸命事前研修してくる努力家。そして多くのことに挑戦しようとする野心家でもあるようだ。大塚氏の後、IBCの顔は神山氏だな。 
    
2005年3月12日(土) 吉村文彦先生と語る会14:00〜 懇親会17:00〜 盛岡グランドホテル  
 竹下総理大臣が全国の市町村に一律1億円を配った「ふるさと創生資金」騒ぎを覚えているだろうか。”ばら撒き、無駄遣い”と揶揄されたあのふるさと創生1億円である。何に使ってもよいというのだが、全国の首長(クビチョウ)は1億円の使い道に頭を悩ました。
 中には、純金こけしを作ったり、宝くじを買ったり、日本一大きな、あるいは長〜い****を作ったりと、珍妙な、ひんしゅくを買った使い方もあったようだ。もちろん、温泉を掘ったり、観光資源、人材育成資金に使用した賢明な自治体もあった。使い道一覧はたとえば、青森県の場合がこちらにある。
 創生資金の有効的使い方で全国的にも名を挙げたのが岩手県の岩泉町である。岩泉町は「ふるさと創生資金」で「まつたけ研究所」を設立した。所長として京都から、農学博士、吉村文彦先生を招聘し、15年間の任期で岩手のマツタケ栽培について科学的に研究してもらい、収穫高3倍増など、大きな成果を挙げた。優れた使い方をした優良自治体として、自治省からさらに副賞も贈られているとも聞いている。
 吉村先生の任期はこの3月で終わり、先生は岩泉を離れる。それを伝える岩手日報の記事はこちらで読める。
 その吉村文彦先生と語る会が盛岡ブランドホテルで開かれた。第一部のフォーラムには約120人が参加し、講演とパネル・ディスカッションが開かれた。フォーラムの案内はこちら。その後、懇親会も開かれ、増田知事も駆けつけてくれた。挨拶だけで帰ると思ったら、30分ぐらい、各テーブルを回ってビールを飲んでいた。あちこちで記念写真を撮っていたが、私はその輪に入れなかった。いや、遠慮した。
 なお、吉村先生のお別れ会は岩泉町主催でもあるということだ。その岩泉町主催の講演会、送る会の案内はこちら
 2時から7時頃までの、フォーラムと懇親会が終わった。私の友人でもある、この会の実行委員長N氏は、吉村先生やパネリストの皆さんとの二次回があるようだ。私は一人タクシーで映画館通りへ。8時10分からの先行上映、「ナショナル・トレジャー」を観る。製作ジェリー・ブラッカイマー、主演ニコラス・ケイジ。このコンビの「コンエアー」も面白かったが、「ナショナル・トレジャー」も男臭い面白さ満載である。 
  
2004年10月9日(土) 釜石南高校90周年記念講演会 衣笠幸雄 「限りなき挑戦」 台風22号 9個目上陸 
 釜石南高校90周年記念講演で講師として呼ばれたのは衣笠幸雄氏だった。粋な人選である。これは行くしかない。もちろん記念式典、記念講演、祝賀会とすべてに参加申し込みをしている。
 久慈市侍浜を朝6時に出発する。過去10年間で最大級の台風22号が日本列島を直撃するコースを進んでいる。岩手県内に再接近するのは今夜深夜から明日未明にかけてとか。まだ台風の影響ではないと思うが、雨の中、国道45号線を安全速度で南下する。
 釜石南高校に9時40分頃に到着する。受付を済ませ最初に出会った先生はかつての同僚、M・Tさん。「久しぶりです」と言うと、「ホームページいつも見てますので久しぶりという感じではないですよ」。恐縮です。いつもありがとうございます。
 さて注目の衣笠幸雄氏の記念講演。中学で野球を始め、甲子園に出場する夢を実現させるために京都の名門、平安高校に入学する。部員200人以上、捕手希望者も9人もいた。身長1.65m、体重55kgでレギュラーを目指すには努力しかない。頑張った。最初に与えられたポジションはファースト、打順は6番だった。自分はキャッチャーで4番を打ちたい。監督にそれをアピールするために誰にも負けない努力をした。
 3年生の夏は甲子園ベスト8。帰りのバスの中でプロ野球を目指すと心に決めた。6球団から声がかかったが広島を選んだ。広島なら試合に出られると思った。しかし、2月1日、日南キャンプ初日。プロの選手のプレーに目を見張った。プロはみんなこんなにうまいのか。平安高校野球部に入部したときと同じようなショックを受けた。しかし落ち込むことに何の進歩もない。何のためにプロ野球に入ったのだ。納得するまで練習した。
 最終的にホームラン504本、ヒット2543本を打った。昭和62年には2131試合連続出場も達成した。死ぬほど練習をするのは何のためか。明日の試合のためではない。ユニフォームを脱ぐ時のためである。今できる努力を今やること。何のためか。人生の最後を満足して迎えるためである。自分の人生を語れる努力を。夢を持ち、限りなき挑戦を!
 釜南野球部キャプテンの三浦君が立派なお礼の言葉を延べ、マネージャーが花束を贈呈して記念講演会は終わった。講演慣れしている氏である。少々聞き取れないところもあったが、内容は分かりやすく、野球と人生どちらにも通じる、心にずしんと響く講演だった。さすがに鉄人、哲人、28号。  
 
2004年10月24日(日) NHKの「伊藤博英おおいに語る」 於・遠野市民会館 
 「NHKニュース7」や「NHK週間ニュース」のニュースキャスター伊藤博英が遠野に来た。NHKのチーフアナウンサーである。新潟県中越大地震のニュースで報道局は大忙しだと思うが、昨日から今日、そして明日まで遠野に滞在するのだそうだ。大丈夫なのか。遠野滞在の許可を得てケータイの電源も切ったから大丈夫、と言っていた。
 なぜこれほどの大物NHKアナを遠野に呼べたのか。知らなかったが、伊藤アナは遠野市生まれだった。略歴を見ると、昭和30年遠野市一日市(ひといち)で生まれ(49歳)、小学校は花巻小学校(母親は花巻市出身)など、仙台市立台原中学校卒業、仙台二高卒業の後、早稲田大学に学び、昭和52年NHK入局、とある。
 遠野市には4歳の頃まで住んでいた。父親は東京帝国大学卒で遠野高校教師を10年間務め、東北工業大学教授も歴任した。祖父は盛岡中学で金田一京介らと同級生で、遠野町長も務めた人だった。家系的に申し分のないサラブレッドである。
 政局報道等、堅いイメージの伊藤アナであるが、終始ニコニコしながら、幼い頃からの自分を語ってくれた。さすがに話のプロである。NHK入社試験の内容、同期のアナウンサーたち、担当した様々な番組、皇室報道でのハプニング、5年間続いた「おはよう日本」での通勤(午前2時起床、寝不足、どこでも誰とでも寝られる?)、横浜ベイスターズのファンであることなど、ソフトな語り口で、聴衆を飽きさせることなく90分間ほど話してくれた。
 中でも、阪神大震災、フセイン像破壊、フセイン逮捕など、原稿なしで臨んだ緊急報道でのエピソードが楽しかった。また氏の得意分野であるという皇室報道、皇太子ご結婚の儀などでは、当事者だからこそ語れる楽しいエピソードを紹介してくれた。ニュース番組のラストでお辞儀をすると誰でも気付く、危うくなりかけた頭頂部ネタでも笑わせてくれた。
 講演の後15分ほど聴衆と話し合う時間を設けてくれた。遠野高校で氏の父親に教えられたという人は、遠野への思いを熱く語り、NHKがもっと遠野を宣伝して欲しいと、ムシのいい要望をしていた。伊藤アナも乏しい記憶をたどるように、幼い日の遠野での思い出を語ってくれた。
 NHK職員の金にまつわる不正や海老沢会長についてどう思うか誰も尋ねてくれなかった。残念。
 TVでは笑い顔など見たことがない真面目なイメージの伊藤アナが身近に感じられた2時間だった。ニュース番組で伊藤アナとTV再会するのが楽しみだ。どんなに真面目に政局などを報道していようと、今日の講演を思い出し思わず笑ってしまうだろう。  
 
2003年10月24日(金) 県立大学へ 西澤潤一学長講演  
 最初に県立大学の見学である。前にも来たことがあるが、あらためて、羨ましい施設設備にため息が出る。ぜいたく過ぎるな。ほんの少しでいい、我が職場K・YGにも分けてくれよ。同じ県立じゃあないか。
 メディアホールのパソコンが前に来たときはSONYのVAIOだったが、今日見たら日立のフローラに代わっていた。OSはもちろんWindowsXPのようだ。注意書きに「ゲーム禁止」とあった。学生達がWeb対戦型ゲームでもやっているというのか。
 県立大学の愛称はIPU(アイピーユー)。Iwate Prefectural University(岩手県立大学)の頭文字であることは容易に推察できる。トヨタのミニバン、イプサムと同じ?ただしイプサムの愛称はIPUと書いて「イプー」と読ませる。
 西澤学長の講演を聞くのは今日で2度目である。以前は吉田松陰と松下村塾(山口県萩)について熱く語ってくれた。今回は現在の教育や若者についての厳しい私見。自身が高校2年生(仙台二高)の時、当時の宮城県知事の言った言葉、「未見の我を発見せよ」に触発され、学問に目覚めたエピソードなどを話してくれた。前置きもなし、無駄な事は全くなしの、超頭脳派人間、ノーベル賞まちがいなしと言われた学者の講演にしびれた。