歌野 晶午
2012年4月11日(水) 「春から夏、やがて冬」(歌野晶午・著)読む |
![]() 「夜明けの街で」(東野圭吾)のオビには騙されたが、歌野晶午は違うだろう。彼ならまたやってくれるに違いない。「葉桜の季節に君を想うということ」のように、見事に読者をペテンにかけるだろう。ラスト5ページの反転する世界とはいったい?おおいに楽しみじゃないか。 歌野晶午には「ハッピーエンドにさよならを」という作品もあった。歌野晶午はハッピーエンドが嫌いらしい。今回も思い切りアンハッピーエンド。主人公平田は、一人娘を轢き逃げで殺され、妻は自殺し、自分は癌に侵されて余命いくばくもない。生きる希望などないがスーパーの保安係をやっている。 そんな平田にまとわりつく末永ますみ。スーパーで万引きしていたのを補導し、死んだ娘と同い年だったこともあり、赦してやった女だ。しかし、この女が実は〜だった。そして最後の5ページで、いや実は〜だったかも、と読者に判断をゆだねる結末だった。 結局、真相は明かされない。それでも善良な市民平田が殺人犯となり、癌の進行により、服役中に死ぬことは確実である。こんな内容のミステリーに救いはあるのか。絶望”と“救済”のミステリーと言う人もいるが、どこに救済があるのだろう。 私はラスト5ページより、200ページを過ぎた辺り、平田の行動にびっくりした。そしてますみの長い長いメールにもびっくりした。予想もつかぬ展開だった。さすが歌野晶午だと思ったが、いよいよラスト5ページに差し掛かり、気合いを入れなおして読んでみた。なるほどミステリーの結末として、作者はもう一つの解決編を用意していたのだ。これが救済なのか。 読みやすい文体だ。200ページ以降がこの本の神髄であろうが、そこに至るまでも面白く、まったく飽きることなくサクサク読める。読後感はよくないが、あのハスッパな女、ますみにラスト5ページの状況が可能なのだろうか。 「十九世紀フランスの聖職者は行った。一瞬だけ幸福になりたいなら、復讐しなさい。永遠に幸福になりたいのなら、赦しなさい」(211ページ。 |
2010年4月19日(月) 「ハッピーエンドにさよならを」(歌野晶午・著)を読む |
![]() 「おねえちゃん」:普通の姉妹が登場する短編ミステリー、そう思って読んでいくと31ページでガツンとショックを受ける。あぶなくさらっと過ぎるところだった。そう来るのか、この短編集は。 「サクラチル」:引きこもり状態で何年も東京大学を受験し続ける息子に、母はいったいいつまで耐えられるのか。狂気の親子の物語。 「天国の兄に一筆啓上」:ショートショート。兄の死から15年、時効の成立した直後の弟の手紙。まあこんなものか。 「消された15番」:やっと息子が甲子園デビュー、そんなテレビ画面が幼児連続殺害猟奇事件を報じる臨時ニュースでかき消された。この恨み、はらさでおくべきか〜。 「死面」:死面とはデスマスク。絶対入ってはいけない部屋に入った少年が見たデスマスクから事件は起きる。B級ホラー。 「防疫」:教育ママが娘のお受験にすべてをかけた。しかし失敗。「サクラチル」と繋がる短編。「殺される前に殺したの」のラストの一言に、なるほど、そりゃあ、こんな殺し方もあるよな。 「玉川上死」:玉川上水を死体が流れてくる。死体が2人を殺した?あるトリックを使った完全犯罪でこれこそミステリー。 「殺人休暇」:ストーカーから身を守るにはもう自分が死ぬしかない。死の偽装とは可能なものか。しかしストーカー君も死んでしまったら?ひねりの効いたストーカー短編。 「永遠の契り」:好きだったあの娘と初めてお泊り。夢なら覚めないで。ラストにガツンとやられる。 「In the lap of the mother」:子どもを連れてパチンコに興じる母親。子どもから目を離しちゃならない、子どもを車の中に放置するなんてもってのほか。そう思う完璧な母親だったが、悲劇は起きた。なぜ? 「尊厳・死」:ラストの1行にあっ!と声をあげる。これぞ歌野晶午、お得意の見事な叙述ミステリー。はまった! |
2009年9月15日(火) 「ガラス張りの誘拐」(歌野晶午・著)を読む |
歌野晶午は思いっきり変化球ミステリーで読者を惑わせる。何度かだまされ怒りたくもなったが、それでも次も読みたいと思わせる不思議な作家だ。「ガラス張りの誘拐」は歌野晶午初期の頃の作品(90年)であり、やはり少し変わった構成のミステリーだ。 目次を見ると、「第二の事件 保健室の名探偵」が最初の章で、次に「第三の事件 ガラス張りの誘拐」が続く。そして「第一の事件 夢で見た明日」、「エピローグ」となる。最初は、短編(中編)ミステリー3作品の文庫本かと思ったが、3つの事件がつながり、「エピローグ」で解決する1つの作品だった。しかしこのミステリー、なぜ第二の事件から始まるのだ? 第二の事件は連続婦女誘拐監禁暴行殺害死体損壊遺棄事件。長たらしい名称だ。何人目かの被害者が犯人の隙を見て逃走する。犯人によるものと思われる犯行声明文がマスコミに送られる。被害生徒の通う高校の養護教諭が推理を働かせ、事件はほぼ解決を見る。しかしすっきりしない。殺されたはずの女生徒は生きていた。 蛇足であるが、養護教諭の推理では、犯人は千葉県市川市に住む男性であり、市川氏を中心に半径60キロ以内で犯行が繰り返される。江戸川も登場する。つい2日前に行ってきたばかりだ。 第三の事件が本の題名にもなっている誘拐事件だ。第二の事件の担当刑事の娘が誘拐される。身代金1億円、警察といっしょに透明の袋に入れ、衆人環視の浅草、浅草寺に持って来いという。いったいどうやって奪うつもりだ。娘は無事か。犯人は逮捕されるのか。 この誘拐事件も人を喰ったような結末を迎える。そして仕掛けと犯人が徐々に分かってくる第一の事件。すべてはここから始まったのだ。エピローグはいわゆる解決編。第一の事件パート、最後まで読まずとも裏で仕掛けている人物は分かる。 ほぼ一気読みできる面白さは堪能できるが、強引過ぎるような展開に、何これ?と思う人もいるだろう。そこが歌野晶午らしいと言えば歌野晶午らしいのだが。 |
2008年5月11日(日) 「長い家の殺人」(歌野晶午・著)を読む 荒削りだが面白かった |
歌野晶午のミステリーデビュー作だという。彼が師と仰ぐ島田荘司が解説を書いている。「本作はまれに見る傑作となった。昨今忘れられかけているミステリーの誠実なる原点がここにある。トリックの大胆なアイデアはミステリー史上に残ってしかるべきだろう」。 当時はまだ実績も何もない新人作家のデビュー作に対してこのコメント。褒め過ぎだと思うが。。著者のことばも、「トリックは出つくした―この言葉を何度となく目にしてきました。本当にそうなのでしょうか?」と、新出トリックには自信たっぷりげだ。 大学生のロックバンドが卒業を前にラストライブを計画する。それに向けた合宿のため、新潟県湯沢のペンションに集まってきたのはバンドのメンバーら6人の大学生。それにペンションの支配人。前半の登場人物はこの7人だけだ。人間関係は分かりやすいし、伏線らしきもの、ミスリードらしきものがぷんぷんにおってくる。最初は吹雪の山荘モノ?と思っていたが、残念、季節は冬ではない。事件後警察に連絡し、警察の捜査も入る。 まずリードギタリストが部屋から姿を消す。大切にしていたフェンダーストラトキャスターなどの荷物もない。翌日午後になって同じ部屋で死体が発見される。死体が今ままでどこに保管されていたのか。どうやって死体を運び出し、またなぜ死体を元の部屋に戻したのか。彼はA7コードから始まる歌を作っていたが、ダイイングメッセージか。 第1の殺人が解決を見ないまま、実際のライブで第2の殺人事件が起こる。今度の現場は東京新宿のライブハウスだった。今度も同じトリックか。同じようにいるはずの部屋に被害者いない。やがて同じ部屋で死体となって発見される。第1の殺人と共通点がある。 満を持して探偵役、信濃譲二(通称ジョージ)が登場する。彼は状況を聞き現場を確認しただけでトリックを見破るスーパーロジカルモンスター(僕が勝手につけた呼称)。なるほどトリックは実際に可能かどうかはさておき、ミステリーとしては納得できるもの。人魂の正体はまあ、そんなもの。写真の秘密からトリックに気が付いた人もいるだろう。あるいは死体を消失させるとは部屋を消失させること。これに気付いた人もいたようだ。僕はまったくダメだった。 荒削りだと思った点。@登場人物の台詞が素人的、大学生にしては幼稚。特に第1の被害者の人物像には不満。AA7コードで始まる歌のダイイングメッセージがややこしい。B動機が最後に示されるが、それまでに読者には知らされない。C本物の泥棒がタイミングよく謎を深めているが、フェアじゃない。D第1のトリックと第2のトリックがほとんど同じだということ。第2のトリックはあれでうまくいくの? それでもミステリーとして基本的なことは押さえてある。十分に「信濃譲二シリーズ」を読みたいと思わせる作品だった。 |
2007年11月26日(月) 先日読んだ「世界の終わり、あるいは始まり」(歌野晶午・著)について |
東京近郊で連続する小学生の誘拐殺人事件。事件は依然として未解決だ。身近にそんな誘拐事件が起こっても、驚いたり悲しんだり哀れんだりする一方で、わが子が狙われなくてよかったと胸をなでおろす親は多い。しょせんは他人事、自分の家族には関係ないのだ。幸せなこの家族に不幸の波が押し寄せてくるなど、あるはずがないじゃないか。 主人公・富樫の長男・雄介は成績優秀で第一志望の私立中学校受験も心配ない、自慢の息子だ。下の長女は芸能界方面で働かせたいほど目鼻立ちはエキゾチック、歌声は素晴らしい。パートで働く妻との関係も良好で、子供たちとの会話も毎日ある。首都圏に一戸建ての我が家も購入した。自分はもうすぐ課長昇進もありそうだ。つまり、富樫一家は絵に描いたような幸せな家庭、だった。 しかし、ある日富樫はたまたま雄介の部屋に入り、とんでもないものを発見する。まさか、まさか。わが子が誘拐殺人犯人なのか。そんなバカな。疑念はどうしようもなく広がる。息子が犯人でない証拠、そう、アリバイがあるはずだ。塾に行っていたとか。しかし聞いてみると塾は何ヶ月も前に勝手に止めていた。自転車のタイヤの傷、泥の鑑定、夜光塗料など、調べれば調べるほど雄介が犯人である物的証拠も出て来た。 自分の子どもが連続誘拐殺人犯であることを確信した富樫。さあ、彼はどんな行動に出るか。 う〜ん、さすがに歌野晶午。読みやすい文体、早い展開、畳み掛ける家族崩壊への予感。文句なしに一級品。面白い。寝不足になろうとも一気読み必至のミステリーである。この先にどんなハッピーエンドが考えられるのか。あるいは破滅・崩壊のエンディングか。もし真犯人がいるとするなら息子の行動はどう説明されるのか。 そして怒涛の後半へ。うわ〜そうくるのか。最悪じゃないか。この親子に救いの手は差し伸べられないのか。そう思い始めた頃に、おや、あれ、あれ。何か変だぞ。あっ、まただ。あちゃ〜、いったいどうなってんの? 「既存のミステリの枠を超越した、崩壊と再生を描く衝撃の問題作」なのだそうだ。だから、「世界の終わり(崩壊)、あるいは始まり(再生)」なのだ。 しかし、抜け出すのが難しいラビリンス。常軌を逸したミステリー。起承転結などクソクラエ。人を喰ったようなプロット。解決編?そんなものあるか。分かりやすく言えば思いっきり変化球ミステリー(ちっとも分かりやすくないか)。 やっぱりこの作者は普通でない。でも読んで後悔することはない。面白かった。人に薦めることができるか。もちろん薦めるさ。歌野晶午の小説と意識してから読めば、面白さを堪能できる小説だ。 |
2007年6月12日(火) 「葉桜の季節に君を想うということ」(歌野晶午・著)を読む |
同作家による「女王様と私」でもだまされた。この「葉桜の季節に君を想うということ」もかなりだまされるらしい。本の帯にも書いてある。「あまり詳しくはストーリーを紹介できない作品です。とにかく読んで、騙されてください。最後の一文に至るまで、あなたはただひたすら驚き続けることになるでしょう」。「2004年版このミステリーがすごい!大賞」第1位、「2004年本格ミステリベスト10」第1位でもある。 大いに期待して読み始めた。「女王様と私」では、まず30ページで、あっ!と驚き、続いて50ページほどでも、えー!だった。悪ふざけが過ぎると思ったりもしたが、やっぱり面白い本だった。 しかし、この本、「葉桜の季節に君を想うということ」では序盤、中盤と読み進んでも、ちっともだまされない。おかしいな。主人公、元探偵の成瀬将虎の女好きぶり、豪放磊落ぶりに、笑いながら楽しく読める本ではないか。だまされる本という謳い文句とずれがあるぞと思いながら読んでいた。終盤に差し掛かる前までは。 ストーリーは3つのパートでそれぞれ進行する。1つは、成瀬が蓬莱倶楽部なる悪徳商法の本部に潜入し、悪行を暴こうとするパートハードボイルド小説タッチのパート。 2つ目は暴力団抗争に絡み、新入りとして一方の組に潜入し、2人のヤクザの殺人の謎を追う、本格推理小説テイストのパート。 そして3つ目は、自殺しようとした女性、麻宮さくらを助け、彼女と交際する恋愛小説的パート。この麻宮「さくら」に掛けた題名にもトリックのヒントが隠されている。また安さんの一人娘のエピソードなど(実際は単なるエピソードではなかったが)。 やがて終盤、考えても見なかったこの本のトリックが露わになる。そんなバカな。パラパラと前のページを繰り読んでみる。なるほど憎い伏線(秘密を知った上で読むと笑える伏線だ)も散りばめてある。いや、待てよ。この秘密、基本は「女王様と私」と同じではないか。しかし、これがトリックと言えるだろうか。ただただ読者をペンでペテンにかけただけではないのか。絶対に映画化やTVドラマ化できないトリック(これはかなりのネタバレ、あるいはヒントになる)。 初めからもう一度読んでみたくなるミステリーである。衝撃の秘密を知った上で読み直す楽しみもある。1粒で2度美味しい、いや、1冊で2度面白いお得な本だ。読み捨てには絶対できない貴重なミステリー。さあ、あなたもこの秘密に挑戦しませんか。 |
2006年1月14日(土) 「女王様と私」(歌野晶午・著)を読む 何と言ったらいいのかこの読後感 |
30ページで黒服の正体が分かって、まず、あっ!と思う。50ページぐらいで、絵夢の正体が分かって2度目の、あっ!だ。ミスリーディングに完全にだまされる。さすがにミステリー作家の作品だ。しかし、この作品はミステリーなのか(もちろんミステリーだと思って購入したのだが)。44歳独身の太ったオタクが小学6年生女児と危うい関係を続ける小説のようである。女の子が「女王様」で44歳オタクが「私」である。ミュージカル「王様と私」は全く関係がない。 やがて中盤から小学6年生女児の殺人、彼女の担任も殺される、そしてもう1人の女児も。犯人は「女王様」のようだ。が、なんと、その「女王様」も殺される。本格的な推理小説だ!しかし、どこかおかしい。絵夢の存在、4つのお願い&危機脱出の摩訶不思議さ、やっと出てきた探偵役がすぐ殺される。いったいラストは本当につじつまが合うのか。おちゃらけなラストか? このミステリーは3つの章から成る。ページ数が非常にアンバランスで、最初の章、「真藤数馬のうんざりするような現実」は3ページだけで、「真藤数馬のめくるめく妄想」の2つ目が380ページほどある。そしてラストの「真藤数馬のまぎれもない現実」の章も9ページだけ。読み終わってこの意味が分かって、何だこれは!と怒り出す人もいるだろう。いや、ほとんどの人がルール違反だと大騒ぎするだろう。 中身はすごい。小学生女の子の”売り”、”買い”、ロリコン、フィギュアへの愛、教師の異常性愛(男児への)、刑務所内の同性愛(ホモ、ちゃんとホられる)、虐待、親子の異常性愛など、よくもまあ、これだけの暗い、過激なテーマを盛り込んだものだ。しかし、この小説に暗さはみじんもない。ギャル語満載で、古い人間には少々読みづらいが、深刻さがなく、明るい、ある面、能天気な物語である。 なんかおかしいな、推理小説にしては違和感がある、と思いながらも、面白く、ドキドキしながら少しも飽きることなく、最後まで読み続けられる。ただ本格的な推理小説を求めて読み始めた人は、途中で嫌になるか、最後まで読み終わっても、ふざけるな、と怒り出すだろう。結局、あまり人に薦められないおふざけミステリー、と言っていいようだ。 |
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