遠野の子どもたちは本当に大根をかじったのか

           
2014年2月12日(水) 「大根をかじる子供たち」4 あの写真が撮られた経緯とは(推測) 
 あの写真の情報を求めてその後も何人かの人(主に上郷町の人)に話を聞いてみた。
 すると、先日有力な情報を得た。もう亡くなった上郷町のある老人から聞いた話として、私に話してくれた人がいる。その話がたぶんあの写真の秘密に繋がりそうなので紹介しよう。その老人が言っていたこととは;
 昭和9年に東北地方は明治38年以来の大凶作だった。遠野でも農作物はほとんど取れなかった。この頃だ、欠食児童という言葉が出てきたのは。今ではもう欠食児童という言葉は死語だと思うが、当時子どもたちはみんな腹をすかせ、欠食児童と呼ばれていた。
 その年に岩手県知事が遠野を視察に来ることになった。上郷村と青笹村の農家を視察するというのだ。
 当時の上郷村長は、知事様が上郷村に来られるということで、村を挙げて歓迎することにしたそうだ。米や野菜をかき集め、釜石まで行って魚を調達し、知事のためにごちそうを用意した。村長をはじめ村の役人たちは一張羅を着て知事を迎えた。どんなに凶作でも知事様が来るのに粗末な格好でお出迎えすることはできない。だから凶作で食う物も着る物もなかったにも関わらず、良かれと思い、上郷村は頑張って知事様を歓迎したのだ。
 ところが、青笹村はまったくそうしなかった。村長も村の役員も普段着や野良着のボロをまとい、食う物も満足になかったから、正直に稗飯(ひえめし)と漬け物と味噌汁だけを出した。味噌汁の中身もほとんどなかった、こんな味噌汁を空汁(からじる)と言ったものだ。大凶作だから普段の厳しい貧しい農村生活の実態を見てもらった。青笹村は決して”いいふり”こいだりはしなかったのだ。
 これが効を奏した。県知事は青笹村の困窮ぶりを目の当たりにし、義捐金や支援物資を上郷村より青笹村に多く出したのだという。上郷村と青笹村は隣同士の村である。青笹村の凶作が上郷村よりひどかったことはないのに、村長の判断というか機転により、青笹村は上郷村より多くの支援を得た。青笹村は喜んだ。上郷村の村民は、みんなで青笹村を羨み、青笹村長はえらかったと褒めたたえたという。
 だからあの写真は、青笹村長が、子どもたちはこんなに飢えているのだということを知事様に知らせるために、たぶんその時だけ大根をかじらせ、写真に撮らせたのだろう。今で言うヤラセだな。知事随行の者が、あの写真を撮り、青笹村の子どもたちの惨状として紹介したのだろう。それがいつの間にか一人歩きし、教科書にまで載るようになったのかも知れない。
 以上が上郷町の老人が言っていたことを又聞きし、内容をまとめたものである。表現は老人が言ったこと、聞いた60代の女性が言ったこと(ヤラセ写真の推測など)が混在する表現になっているが、なるほどこれならストンと腑に落ちる。県知事が訪問した時に、子どもたちに大根をかじらせるたのは青笹村長ならやりかねないことだったのだ。普段の生活ではいくら飢えても誰も大根をかじらなかった、かじったのも見たこともないという、今の老人たちの言葉に繋がるのである。
 長い間疑問に思っていたことが、推測の域を出ないが、たぶんそうであろうという結論に達した。N村先生、どうでしょうか、あの写真にかかわるこの推測。 
  
2014年2月11日(火) 「大根をかじる子供たち」3  
 あの写真を昔見たことがあるという人はネット上にも多い。ツイッターやブログから拾ってみると;
 ・昭和初期の飢饉の時に大根かじってる子供の 写真が日本史の教科書にあったけど、あれってどこ?
 ・日本史の教科書にのってる「大根をかじる子ども」の写真 、撮影地が岩手でブルーになった。
 ・そこでよく出る話が日本の教科書のいい加減さです。空腹の時は生大根を抜いて畑の隅でかじったという写真がありますが、~
 ・とりわけ歴史の教科書に載っている写真説明はかなり嘘〈でたらめ〉が多いのである。 なぜかというと、~
 ・資料の○ページに○△くんが載ってます。そこを見ると大根をかじる私がいました。似てる!
 ・大根をかじる子どもたちの写真は何回か見たことがあります。
 ・青笹村って、今のどの地域なんでしょう
 ・青笹村の位置、ググりましたら岩手県遠野市になっていました。土地的に飢饉になりやすい場所のようです。
 ・中学の歴史の資料集で見た、飢えて大根をかじる子供たち(岩手県1934年)の写真を見て、なぜ東北の子供たちがそれほどまで飢えなければならないのか不思議だったのですが、~。
 ・ ふと、思い出したのですが、かつて歴史の教科書に「飢えて大根をかじる子供」という写真が載っていました。 明治時代の東北地方農村の窮乏を写したものだとされています。
 ・昭和初期の飢饉の時に大根をかじってる子供の 写真が日本史の教科書あった ...
 ・そこに「大根をかじる子ら」というような題がついた写真が載っていました。食事を与えられない子どもたちが畑で生の大根をかじっている写真だったと思います。
 ・農村で大根をかじる子供の写真とか教科書にありましたなあ。俺らの世代はまだいい これからの子供達の事を考えると胸が締め付けられるようだ
 ・このような農村の惨状を伝える資料として、昔から歴史書や教科書でよく使われてきた写真が二つあります。「大根をかじる子供たち」と「娘身売り」というタイトルを付けたくなる写真です。
 ・吉川弘文館の「国史大辞典第4館」に「昭和9年の飢餓に襲われた岩手県青笹村小水門の子どもたち」というキャプションを見つけました。
 最後に、「新しい歴史教科書」が描く東北像(時評)のコメントから一部を掲載させてもらおう。
 「東北地方の凶作、空腹で大根をかじる子供」とある。これは、川西英道「東北」が論じているような近代が見出した「東北」像を、ステレオ・タイプに語ろうとする意志しか持たない者の言説に過ぎないと断定してよい。ほんとうに東北はいつも貧しかったのか。飢饉が襲ったのは東北だけではなかったのだし、大根をかじる子供がいたのも東北に限ったことではないはずだ。お昼の弁当を持って行けない子など、どこにでもいたろう」
 結局、あの写真が撮影された秘密に迫ることはできなかった。
 しかし、ある人の祖母が話していたという当時のことが、実に有力な情報を含んでいた。
    
2014年2月10日(月) 「大根をかじる子供たち」2 「白川以北一山百文」に通じるものがあった?
 「大根をかじる子供たち」に関してN村氏からメールあり。彼によると、その教科書は山川出版の教科書であるという。ネットで検索すると「詳説日本史」という教科書のようだ。。
 昭和の時代、N村先生は進学校の盛岡S高で日本史を担当していた。ある時、こう訴えてきた生徒がいた。優秀な生徒だったという。
 「あの、大根をかじる子供たちのことは話さないで下さい」
 なぜかと問うと、「僕は遠野市出身でとてもつらいのです」という答えだった。その頃は日本史の単位数が足りなく昭和までは詳しく授業ができなく、彼の訴えは結果としてOKとなったが、N村先生、心が痛んだという。
 その後、同じ教科書(平成4年版)を別の高校、花巻K高校で指導したが、あの写真はもう掲載されていなかった。あの写真があったページには次のような記述があった。
 「この恐慌が発生すると各種農産物価格が暴落し、特に生糸の対米輸出激減の影響を受けて繭価は大きく下落した。不況のために兼業の機会も少なくなったうえ、都市の失業者が帰農したから東北地方を中心に農家の困窮は著しく、欠食児童や婦女子の身売りが続出した」
 この平成版にあの写真がなくなったのは、盛岡S高時代の生徒の悲しい気持ちなどが反映されたからかと思っていたという。
 そこで、あの写真の秘密に迫ろうと、再びネットで検索してみた。
 「続東北」(河西英通・著)という本を紹介するサイトがある。その中で、同サイトの作者は次のように書いている。
 「第3章「飢饉と絶望」では、1934年凶作において、「大根をかじる子どもたちの写真が、飢饉を象徴するものとして有名」だが、大根をかじる姿を東北飢饉のシンボルとして伝えたマスコミとそれを受容した読者の眼差しこそが問題なのである」
 また、別の人は言う。
 「簡単に要約すれば、大正期における東北は、凶作や出稼ぎ、身売りといった言葉で象徴されるように、文化程度は低く、貧しい地方であって、人々の「日本」のイメージから取り残された「異境」として認識されてきた」(「白河以北一山百文」という言葉あり)。
 その本の紹介ではないが、こう言う人もいる。
 「農家の子供が大根をかじっている写真は日本史の教科書で見たことがありますが、東北のイメージがあの写真一枚で決定されてしまうほど、写真の力、そしてマスコミの力の大きさを考えさせられてしまいます」。
 いずれも、あの写真により東北の否定的な面が表現されていると見ているようだ。
 「白川以北一山百文」も東北をバカにした言葉であるが、大根をかじるあの写真は、岩手、あるいは遠野、さらには青笹を(資料や教科書によって異なる)さげすむ写真になってないのか。こう考えれば、盛岡S高の遠野出身の生徒のつらさも分かる。
 「第二次世界大戦13 平和に対する罪ー別巻・写真集ー」(太平出版社1986年)という本の紹介記事もあった。
 「ダイコンをかじって飢えをしのぐ子どもたち。1931年(昭6年)、東北、北海道をおそった冷害によって、米も麦もとれなかった農村のくらしは悲惨だった。世界的な経済恐慌がさらに深刻になっていたときであもり、農村ばかりでなく、日本じゅうが不況にあえいでいた」
 これは単純に恐慌による貧困ぶりを表す写真としての扱いだ。
     
2014年1月31日(金) サニークーペに生徒を乗せ遠野へ行った  大根をかじる子どもの写真 
 むかし日本史か社会科の教科書(あるいは資料集)に「大根をかじる子供」の写真があった。知っている人も多いだろう。昭和9年の凶作による飢饉を説明するための写真だという。場所は岩手県上閉伊郡青笹村(現在の遠野市)となっていた。横浜在住のN村先生にも見せてもらったことがある。
 その教科書は今でも使われているのだろうか。もうしばらく見たこともないし、その写真のことも聞かない。しかしネットを探せばあるものだ。右下の写真である。3人の子どもが大根をかじっている。
 昭和9年というと1934年、この頃6歳だとすると、2014-1934+6=86歳。まだ多くの人が生きている。私はこの写真をけっこう前から疑問に思っており(いわゆるヤラセではないか)、時々上郷町に住む老人たちに、昭和9年に実際に大根をかじった人がいるか聞いてみた。私が聞いた範囲では誰もかじった人はいなかった。青笹町は上郷町の隣である。青笹町の老人たちにもいつか聞いてみたい。
 昭和51年、私は勤務する高校の生徒たちと昔話に関する取材のために遠野に行くことになった。当時図書委員会の指導をしており、10月の文化祭に研究発表をする生徒4人を連れて、昔話の郷、遠野を訪れるのだ。汽車なら盛岡で乗り換え、花巻で乗り換え、そして遠野まで。これは時間もかかり不便であるからと、自家用車で行くことが許可された(今なら許可されないと思う)。
 B210型のサニークーペは大きくなったとは言え、高校生が後席に3人乗るのはきついががまんしてもらった。左上の写真は土淵町の佐々木喜善の生家の前で撮った写真だ。喜善の生家は現在でも同じ場所にある。屋根や壁板など大きく改装され、昔の面影は残すがけっこう立派になっている。昭和51年に訪問した時は茅葺の屋根であり、喜善が住んでいた当時のままだったと思う。
 日本のグリムと言われた佐々木喜善の生家を見学し、カッバ淵や五百羅漢などを見学し、遠野高校を訪問した。図書委員会どおしの交流会では意見や情報の交換会もあった。その時、遠野高校の通称がエンコウ(遠高)であること初めて知った。もちろんその時は、私が将来遠野に住むなどとは夢にも思っていなかった。
 遠野駅の反対側にあった民宿遠野に1泊し、夜は遠野物語の民話もみんなで聴いた。しかし、私の知りたいのはただ1つ。昭和9年に遠野の子どもたちが大根をかじったのか、ということ。
 昭和51年当時、昭和9年に6歳だった子どもは、51-9+6=48歳だ。まだ50歳にもなっていない。遠野で一番人口が多いぐらいの年代ではないか。民宿の人にも聞いてみたが、大根をかじった人はいなかった。大根をかじった人を見たこともないと言う。
 ということで、昭和9年遠野(青笹)の子どもたちが本当に大根をかじったか。これは上郷町に住む私としても、まだ解決されていない疑問である。博物館の学芸員や伝承館職員など、聞いてみたい人はまだまだいる。