境内の石碑
馬魂碑![]() |
古来、藩制時代から遠野は名馬の産地として聞こえ、明治以後も南部駒の産地として名実とも発展し、軍馬、農耕馬として陸軍省、農林省に買い上げられたが、産馬の魂を顕彰し、なお名馬の産出を祈念するため、海老久太、三浦松兵衛ら有志の発起で大正十年十月二十七日、遠野東館町の馬検場に馬魂碑を建立した。昭和二十九年十二月遠野市の誕生により、馬検場は新張に、馬魂碑は三十七年十一月この地に移された。 |
山奈宗真翁碑![]() |
山奈宗真翁は、遠野地方における農畜産業及び教育文化などの大先覚者で、先祖はもと奥寺を氏としたが、寛永四年(一六二七)領主南部直栄公とともに遠野に移った。翁は弘化四年(一八四七)生まれ、幼名を喜四郎といい、のち惣馬と改めた。明治維新後に氏を山奈と改め、下閉伊郡小国村に白見牧場を開いたのを始め、上閉伊郡内各地に牧場を開設、アメリカから乳牛を導入するなどして牛馬の改良増殖に努め、養蚕を奨励し、また日本各地を巡歴して先進地の風物を取り入れ、洋菜を栽培し、遠野に農業試験場を設置した。そのほか教育にも熱意を注いで小学校開設に奔走、また鍋倉神社(後に南部神社と改称)創建にも尽力した。明治四十二年(一九〇九)六十六歳で没した。翁の数々の功績を顕彰するために碑を建てたが、この建碑の年は国鉄釜石線全通の年であった。 |
四戸三平記念碑![]() |
四戸三平は馬術家である。天保四年遠野に生まれ、政之といい、弓馬と号した。遠野南部氏の家士、一和流馬術師範四戸仁喜太夫の養子になり、初め一和流馬術を学び、のち心強流を学んで大成したという。藩主南部氏に仕え、伊達の丸山、江戸の愛宕山を騎馬で乗り上げて、その名をとどろかせた。明治二年露国皇太子が来朝した時、朝廷の命により馬術を御覧に供した。明治維新後は兵部省に出仕したが、明治九年四十四歳で病没した。のち門人の陸前国唐桑村の石川清馬らが首唱して、四戸三平の記念碑を遠野上組町の駒形社に建てたが、のち当神社境内の現在地に移した。 |