【 vindima 】



 肌を刺す光の感触が消え失せると、空気はしっとりとアロンゾの火照った体を包み込んだ。木陰にでも入ったのだろう。杖で探ると堅い感触がすぐ近くにあった。
 アロンゾは汗でずり落ちたサングラスをもとの位置に押し上げ、今度はその手を前に伸ばして、ごつごつした幹に触れる。体重をかける寸前、軽くて乾いた気配が指先を伝って逃げていった。虫だろうか。
「ごめんよ。驚かしてしまった」
 小さな声で謝り、そうっとあたりに指を這わせてほかに生き物がいないか確認した。
 だいじょうぶ。
 節くれだった幹に背を預け、アロンゾは息を吐いた。折良く風が吹いてきた。じっとりとにじんだ汗が冷えていく。心地よいけれど、冷たくなった汗の粒が肌を滑るのは気持ち悪かった。
 暑い日だ。
 ここまで踏みしめてきた未舗装の土の道は、アロンゾの重さが乗るたびに細かい粒がはじけて崩れた。きっと靴は埃だらけだろう。
 なにもかも乾ききっている。
 さわさわと、眠気を誘う葉擦れの音。


 私は立ち止まった、見なければと思って――遠くから聞こえる女の歌声。


 ああ来る、そう感じた。
 冷たい手がひたりと頬に触れた。
 細く長い指を持つ、陶器のようにすべらかな手。アロンゾは顔を上げる。手はゆっくりと彼の輪郭をなぞり、額を覆って熱い肌を冷やしてくれた。
 青みを帯びた水のにおい。
 葡萄を摘み取ったあとの爪はこんなにおいがする。
 冷たい手はアロンゾの熱を惜しみなく吸い取り、それでもひやりとした感触のままで肌をなで続ける。
 風にさらさらと梢が鳴る。
 細い指が唇に触れた。


「アロンゾ!」


 手は離れていった。
 どたどたと坂道を駆け上がってくる足音――あれは叔父のトーニオ。重くなったな、アロンゾは苦笑する。頑健な農夫は最近太り気味だ。
「やあ、トーニオ叔父さん」
「何がやあ、だ。ひとりでここまで来たのか?」
 トーニオ叔父はぜいぜい荒い息をして、体中から熱を発散している。
「うん。ちょっと散歩したくて」
 長いため息。しゃがみ込んだのか、ずいぶん低いところで聞こえる。
「いきなりいなくなるなよ。せめてひと声かけてくれなきゃあ……」
「ごめん、トーニオ叔父さん。でもいい運動になったろう?」
 笑いながら言うと、叔父は生意気いいやがってと呟いてアロンゾの脚を叩いた。
「喉が渇いちまった。一杯やってこう」
 トーニオ叔父がアロンゾの手を引いた。熱く、汗ばんでいる。これがひとの手なのだなとアロンゾは思う。
 自分はあの冷たい手のほうが好きだ、とも。


 私の歌をきいてほしい――壊れかけたスピーカーから雑音混じりに曲が流れる。
 トーニオ叔父はビールを呷って満足げな息を吐いた。
 アロンゾは葡萄をひとつ口に含む。甘酸っぱさと、ほんの少しの渋み。顎の付け根ががつんと痛んだ。
 果実の香りが強すぎる。
 青々しさを残したあの手のにおいとは違う。
「トーニオ叔父さん」
 頬に視線を感じた。
「どうしてぼくがあそこにいるってわかった?」
「お前はいつも木の下にいる」
 叔父が少し乱暴にジョッキを置く。古びてけば立ったカウンターはすっかりグラスの汗を吸っていて、重いはずのその音にはぐんにゃりした柔らかい響きが混じっていた。
 つぎ足されるビール。
「ガキの頃からそうだった。お前ってやつは、気がつくと必ず木の下でぼんやりしてやがる……夏は特にな」
 アロンゾのグラスの中で氷の山がからりと崩れた。
「暑いからだよ」
「ああそうだ。バカみたいに太陽の下に突っ立ってるよりゃずっとマシだ」
 レコードの針が飛んだ。いま気づいたの、女が2回同じフレーズを歌った。
「だがなアロンゾ」
 叔父の手が肩に乗る。ずっしりと重く堅い。生まれついての農夫の手だ。
「アロンゾ、いいか、気をつけるんだ。闇や影に潜んでいるものは人間じゃない」
 ぐっと力を込めて肩を掴まれる。叔父はいつもこうして鋤を握り、畑を耕すのだろう。命を生むための手。
 でもアロンゾが求めるのはこんな熱い手ではない。
「それがぼくの世界だよ。生まれたときから、ずっと」
 アロンゾが欲しいのは――
 叔父の手が離れた。掴まれた肩にはしばらく彼の体温だけが残り、それもふたりが飲み物を空ける頃には消えていた。
「もう帰ろう、トーニオ叔父さん。今日は昼寝をしそこねてしまったね」
「誰のせいだと思ってやがる」
「うん、ごめん」
 本気でない悪態をつく叔父に笑みを返して、アロンゾは杖を取った。
「アロンゾ」
 ぽつりと叔父が呼ぶ。
「……いや、なんでもない」
 トーニオ叔父はため息をついた。ひどく疲れた吐息だった。
 まるで何かをあきらめた人のようだと、アロンゾは思った。


 欲望、謎、真実、救い――雑音に紛れて女が歌う。


 風は冷たくなったのに陽差しは強く肌を刺す。そして熱を失いつつあった。
 日が暮れる。
 アロンゾは庭に出た。光の矢を避けて冷たい肌触りの空気を探した。陽光の感触が消える。ぞくりと震えが走った。そうして太陽の名残をふるい落とした。手を伸ばし、ベンチの背を掴んで腰掛ける。自分の家だ。どこに何があるかは体が覚えている。
 あたりは一面太陽の色――家の中から女の歌声が聞こえる。
 色。
 アロンゾには決して理解できないもの。


 ひた、と冷たい手がアロンゾの指先に触れた。
 アロンゾは長い指に自分の指を絡める。びくりと魚のように震えた細い手を、しっかりと握った。
「逃げないで」
 つかまえた手を持ち上げて頬をすり寄せる。
 葡萄を摘み取る爪のにおい。
「お願いだ」
 すべらかな手の甲にくちづけた。冷たくて甘い。
 ずっと夢みていた。はじめてこの手がアロンゾのもとに現れたときから。暴力的な陽光から逃げ出し、しっとりした影の空気に抱かれた幼い日――頬に、額に、唇に、この手が触れて太陽の熱を追い出してくれた。
 あの日からずっと。
「ぼくを――」
 アロンゾが力を抜くと、手はするりと彼のてのひらから滑り出た。ためらうように顎に指先が触れる。アロンゾはわずかに顔を上向けた。
 指は確かめるように輪郭を伝い、てのひらすべてでアロンゾの頬を包んだ。


 私の運命――家の中から女の歌声。


 アロンゾが顎の力を抜くと、ほころんだ唇のすきまを冷たい指先がなぞった。
 その指を甘く噛んだ。
 青い香りが口いっぱいに広がった。


 この日からアロンゾの姿を見たものはいない。



夕暮れ、木の影






蛇足的あとがき:
vindima:収穫。特にブドウの収穫を指す名詞。
ポルトガル語です。ブドウにしようかオレンジにしようかずいぶん悩みましたが、こんな言葉があるのが気に入ってブドウにしました。文中の歌詞はマドレデウスのアルバム「 o espirito da paz 」の中の数曲からお借りしています。
一度も海外に出た事がありませんから(パスポートすら持ってません)、どうしても想像の中でしか世界を構築できません。資料とBGMの力でなんとかそれらしくなってくれていればいいなあと、切に思います。
実は国を限定せずに書きじめたため、主人公の名前がアメリカ大陸方面です。タイトルの都合から国をポルトガルに固定するにあたり、名前を直そうとしたのですが、どうもしっくりこなくてそのまま据え置くことにしました。一部ファンタジーですいません……




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