【川】
朝靄がたちこめていた。
老人は家を出て裏庭からのびる小道を下った。冷たい空気が水気を含んでしっとりと体を包んだ。まだ薄闇の残る風景は色がぼやけて水彩画のようだ。湿った土は踏みしめても滑ったりせず歩きやすかった。
木箱の中で釣具がことこと音をたてた。
坂の途中で振り返った。家は靄の向こうに滲んで見えた。
戸口で見送るひとがいた、あの頃から変わらずに。
やがて道は大きく右に曲がった。老人は道を離れ、通い慣れた草の斜面をゆっくりと降りていった。露でズボンが濡れた。
たたんだ竿が背中でかたかた鳴った。
しばらく歩いた。すっかり明るくなった頃、遠くからせせらぎが聞こえてきた。やがて足元は土から石に変わった。消えかけた靄の合間に緑の流れが現れた。
老人は手近な流木に腰を下ろして竿を組み立てた。手垢と埃で黒ずんだ木箱を開けると、蝶番が小さく軋んだ。釣り糸をひと巻き取り出して竿の先につけ、ゆうべ拵えたばかりの毛針を取り出して結んだ。
枯れ枝を集めて火を焚いた。ブリキのやかんをかけ、湯を沸かしてコーヒーを飲んだ。自分でいれたコーヒーの味はあいかわらず濃すぎて気に入らない。ほどよく体が温まると、老人は竿を手に立ちあがった。朝靄はもうほとんど晴れて、川の上にわずかに漂っているだけ。
水面が朝日を反射して眩しいくらい白かった。
水際まで行って勢いよく竿を振った。ひゅん、と空気の裂ける音がした。薄茶色の鳥の羽でつくった毛針はすぐに見えなくなった。川面に深緑の小さな輪ができて、緩やかな流れにまじりあって消えた。
老人は釣糸が少しずつ張っていくのをじっと眺めていた。水の力が手に伝わってくると、竿を振り上げて針を呼び戻し、長い糸が絡まないよう頭上で竿先を振り回した。毛針が生きた羽虫のように円を描いて踊った。白い川面に再び針を落とすと上流にまた波の輪ができて、すぐに流れに消された。
下流からかすかに風が吹きはじめた。対岸の木々の緑はようやく水彩画の中から出て、生きている色になった。谷川の来し方では万年雪の冠をかぶった山が静かに佇んでいた。その向こうで空はだんだん青くなっていった。
釣竿が軋みをあげた。
軽く引くと銀色の魚体が躍りあがった。盛大に水飛沫。やっと暖かくなりかけた陽射しの中で、水滴はきらきらと光をまきながら散った。
魚が勢いよく川底に潜りこんだ。引きずられそうになるのを一歩踏みだして耐えた。そのまましばらく泳がせて、疲れた頃を見計らって竿を上げた。立派な川マスだ。川原の石の上に寝かせると、魚は口をぱくぱくさせて苦しそうにえらを動かした。それから、びくんと跳ねて泳ぐように尾をばたつかせた。くちばしに大きな傷。前にも釣り上げられたことがあるのかもしれない。毛針はその傷から少しずれた場所に刺さっていた。老人は丁寧に針をはずした。
ずっしりと重い魚だった。
鱗が光って眩しかった。
膝の辺りまで水に入った。屈み込んでそっと川の中に戻してやると、魚は横腹を上にして浮き上がった。二、三度えらを動かしたあと弱々しく尾を振り――にわかに元気になって盛大な水飛沫をあげながら泳ぎ去った。
いくつもの小さな波紋が日光を乱反射して、老人の顔を斑に照らした。
何匹かそうして釣り上げたあと、老人は火を焚いて湯を沸かし、昼食の支度をした。コーヒーの味はまずまずだったが、自分でつくったサンドイッチは少しマスタードがきつかった。すっかり慣れてしまったはずなのにいつもそう思うのが不思議だった。
空の遠くで雲雀が二羽鳴いていた。
長いあいだ、彼はこんなふうに生きてきた。
ここで妻と暮らしたのと同じだけの時間、ひとりで過ごした。ここへ来たとき彼は42歳で、妻は40歳だった。妻は60のままで時を止めた。彼だけがもう82。
ほの暗い谷底で、川面は夏の日差しに白くかすんでいる。彼女はこの光が好きだった。永遠を信じる気になれると、目を細めてそう言った。
妻がこの世を去ってから毎日が忙しい。忙しくなるようにしている。家の仕事がなければ、本を読んだり釣りをしたりするのに忙しい。
熱をはらんだ光のなか、谷風はひんやりと肌を撫でていく。彼女はこの風があまり好きではなかった。あとで火照ってくるのだと、すねたようにそう言った。
子供たちはみんな街に住んでいる。寂しくないかと来るたびに尋ねる――もちろんだ。仲のいい友達もたくさんいるが、それでも寂しい。子供たちは街で一緒に住もうと言ってくれる。だが彼にはここを離れることなどできなかった。
彼のすべてはここにあるのだ。
一羽の鶺鴒が降りてきて、ゆらゆらと尾を振った。
妻はあの鳥がお気に入りだった。
老人は冷めかけたコーヒーを飲み干した。釣竿を手に立ちあがると、鶺鴒は小さく鳴いて飛びたった。
空中に毛針を踊らせ、流れに浮かべた。川はあいかわらずゆっくりと下っていた。自分はいつまでこうしていられるだろうか、ふと思った。だが川は変わるまい。妻が旅立ったときのように、自分が死んだそのあとも変わらずに流れていくのだろう。
何百年、何千年経っても。この川は。
今日は一匹だけ持ち帰らせてもらおう。竿を動かしながら老人は決めた。ふたりぶんの食事を作り、ふたりぶんの飲み物を作って、妻の写真を食卓に飾ろう。

蛇足的あとがき:
大学時代にサークル誌に載せた作品の書き直しです。長さはほとんど変わりませんが、中身にはだいぶ修正が入りました。やはり年月のぶん好みの作風は変わっているようです。昔は無理をして少し明るめに終わらせていましたが、現在は寂しいままでもいいから自然でありたいもよう。
かつて「リバー・ランズ・スルー・イット」という映画があり、そのポスターがとても好きでした。そしてNHKでニュージーランドのフライフィッシャーの特番を見たのです……本当にオリジナルと言っていいものかどうか、実は少々自信がありません。