【鳥なき】
ひぃん、と鵺鳥が鳴いた。何度聞いても気味の悪い声だ。乙吉はぶるっと身震いして、火に薪を足した。火が強くなるとなんだか安心した。
ひぃ……ん、と今度は長く鵺が鳴く。
「あれが気になるか」
鋸の手入れをしながら駒松が話しかけてきた。
「里でも聞こえるだろ」
「うん……でもこんなに近くで聞いたの、はじめてだ」
「すぐ慣れる」
研ぎ終えた鋸刃を明かりにかざして、駒松はぼそりとつけ足した。
「慣れなかったら百姓やるだけだ」
乙吉は答えなかった。
乙吉は今年はじめて山仕事に入った若者のひとりだった。いろいろの作法を連日連夜みっちり教わり、ようやっと山入りを果たした。
対して、駒松は野の生活だけで30年を数える熟年の炭焼きである。自身が山に入るだけでなく、幾度となく若手の面倒を見てきた。その中には里に戻った者も多くいたのだろう。乙吉だって自信がない。山の禁忌は里の忌み事よりずっと数が多いのだ。生来小心なうえにもの覚えの悪い自分が山の者として生きていけるかどうか、乙吉は山ごもり一晩めにして疑問を感じていた。
ひぃん、と思い出したように鵺が鳴いた。
「駒松さん……あの話は本当なのかな。その、信蔵さんが」
「言うな」
駒松が顔をあげた。
「おまえのような者はそれを口に出しちゃならん」
たき火に照らされた駒松の顔はしわが深い影になっていた。火明かりがちらちらするたびに影は揺れ、黒い小蛇が駒松の顔を這っているようにも見えた。
「そろそろ夜更けだ。寝ろ」
正直、乙吉は眠りたくなかった。だが駒松が寝ろという。山仕事のあいだは年長者の言葉に逆らってはいけない――それも掟だ。
乙吉は足もとの薪をすべて火にくべ、筵をかぶって横たわった。
死んじまうんだぞ。
新八の声が耳によみがえる。山の神に遭ったら、おまえ、死んじまうんだぞ。
乙吉はきつく目を閉じた。
今日の夕飯時のことである。小屋に戻ってみると、別口で木出しをしていたはずの信蔵が来ていた。ひどく顔色を悪くして、がくがく震えていた。
「山の神だ。山の神の行列に遭っちまった」
どうしたと尋ねる駒松に、信蔵はそう返事をした。
鶏の首をひねったような音がした。乙吉が知らず飲み込んだ空気の音だった。
信蔵は押し黙ったままたき火のそばで震えている。
ふくろうが鳴きだした。
山の夜がはじまる。
「おかしな行列で――」
わななくばかりだった信蔵の唇からぽろりと言葉が漏れた。それらは呆然と立ちつくす信蔵の傍らをしずしずと通り抜けていったのだそうだ。先立ちが鈴を鳴らすほかには足音も、衣擦れひとつなく。
そうして新八が言ったのだ。
「山の神に遭ったら、おまえ、死んじまうんだぞ」
おそらくは冗談話にするつもりだったろう。新八は笑っていたから。
信蔵は食事もせずに横になってしまった。
ひぃ……ん、と鵺が一声鳴いた。
乙吉はびくっと体を震わせた。まるで信蔵の恐れがうつったように、細かい震えが止まらない。
「靄が出てきた」
駒松がぼそぼそと呟いた。しゃり、と金属を擦る音がする。まだ鋸の手入れが終わっていないのだろうか。
「おまえが震えてんのは寒いせいだ。筵だけでなく着物をかぶれ。夏だからって横着すんな」
乙吉は手探りで荷物を引き寄せ、綿入りの着物をひっぱり出した。ふと見ると、駒松はオオビキ鋸の最後の刃にヤスリを掛けていた。
夜明け前に起こされた。眠れないと思っていたのに、実際にはずいぶんよく寝たらしい。
「山下りるぞ」
駒松はぽつりと言って荷を背負った。重そうだ。
3人ぶんはある。
乙吉はあわててあたりを見回した。
小屋の戸板がなくなっていた。青白い靄がゆるゆると流れるのが見えた。時おり山木立の黒い影が覗くほかは、どこもかしこもうす青い。
「早くしろ」
外から新八が呼んだ。乙吉と駒松のほか、小屋に人はいなかった。
せわしく荷物をくくって担ぎ、駒松について外に出た。やはり大荷物を担いだ新八が暗い目で乙吉を見た。
山を下りる理由がわかった。
仲間がふたり、戸板の両端を持って立っている。その上で信蔵が寝ていた。ゆうべの怯えた顔とはうってかわって、静かな顔だった。
やはり信蔵は死んだのだ。
新八が信蔵にそっと着物をかけた。
「行くぞ」
駒松が先頭に立って、無言の行列がすすみはじめた。
りん。
まじない鈴の音。駒松が鳴らしているのだろう。何歩かに一度、規則正しく澄んだ音がする。
りん。りん。りん。
朝靄の向こうからこだまが返る。まるであちらにも行列がいて、同じように鈴を鳴らして歩いているような。
ひぃ……ん、と細い声で鵺鳥が鳴いた。

蛇足的あとがき:
文中の「鵺鳥」はトラツグミのことです。夏の夜にものさびしい声で鳴きます。
山にはいろいろな忌み事があります。私もそれらのすべてを知っているわけではありませんが、生まれ育ちが山里ですから、おそらく平地に育った方々よりは多めに聞き及んでいると思います。山では「恐れ(畏れ、でも)」が人の命を奪うのです。山に入ったら何も恐れてはいけない――祖母からも父からもそう言われて育ちました。
この物語はフィクションです。でも、実際にこうして亡くなった人はいました。昭和のことです。
山とは未だそういう場所なのです。