北にも対屋がある。検非違使は濡れ縁を歩きながらしきりに刀の柄に触れる。これはいざというときに役に立つだろうか。
 ここに棲みつくものに刃は通るのか。

 鼻を嗅ぎ慣れないにおいがかすめた。
 酸いような甘いような。

 検非違使は格子を透かして中を覗き込む。松明の光の届く場所にはこれといって見えるものがない。また中に入らねばならぬかと、うんざりした。
 同時に恐れた。
 今度こそ何かあるような気がした。
 歪んだ老人の顔を思い出した。
 あの生々しい呼気の音と肌触りがよみがえり身震いした。
 戸口に向かおうと足を出しかける。
 ぽうと奥が明るくなった。

 燭台に火が入っている。

 誰もいない屋の中で燭台だけが明々と浮かび上がる。
 ゆらめく灯りは柱の影を八方に広げた。
 蟲の足のように思えた。
「だ、誰か」
 いるのか、と。
 問おうとした言葉を飲み込んだ。己の目がいま誰もいないと見て取ったではないか。
 ではなぜ灯りがついた。
 全身の汗が冷えた。

 部屋の隅で何かうごめいている。

 ひと抱えほどの塊である。  もぞもぞ身じろぎするからには生き物であろうか。
 検非違使は格子に沿って歩み寄った。
 足の甲をくすぐるものがある。
 見下ろせば大きな女郎蜘蛛が足に這い上がろうとしている。
 声をあげて振り払った。
 手のひらほどの大きさの蜘蛛は、足を縮めて格子の中に転げ込み、ふたたびむくりと起き上がった。
 うごめく塊はすぐ近くに横たわっていた。
 蜘蛛であった。
 おそらく何か獣であろう、毛の固まりに取りついた無数の女郎蜘蛛が、ざわざわと這いまわり互いに踏みつけあっている。
 蜘蛛が近づいてくる。
 検非違使は小走りに渡殿を抜け、寝殿につながる妻戸を閉ざして掛け金をかけた。
 またもや冷たい漆喰に背をつけ、ぼうっとする頭で考える。
 この屋敷はどうなっている。
 あの蜘蛛は何だ。
 どうしてこんな奇怪な様相に。
 滅んだからか。
 それとも怪異が家を滅ぼしたのか。

 ……に……
 ……に……った……

 記憶の隅にひっかかるものがある。
 うまく思い出せない。
 検非違使は吐息を落とした。
 疲れた。
 暑さと緊張に晒され続け、体は臓腑に泥がつまったように重い。
 寝殿だけ。
 萎える心をなだめすかして体を動かす。
 寝殿だけ確認してここを出よう。
 もう小部屋をひとつひとつ確かめる気力はない。相方は無事であれば自力で帰ってくるだろうし、帰れない状態ならば自分がどうしたところで無駄に違いない。
 あとひとつ所だけ。
 呪文のように念じて足を運ぶ。
 御座の側の御簾も、いま見える面はすべて下りていた。南面にまわるため、御簾と格子にはさまれた空間をゆっくり歩く。
 きしきしと床板がきしんだ。
 生臭い。
 閉めきった室のこもったにおいばかりでなく、日を置いた魚のような甘苦い、それでいて酸い臭気が鼻につく。
 胸の悪くなるにおいだった。

 南面は解放されていた。
 外側の格子と御簾は閉ざされているが、奥に入るぶんには支障がない。
 検非違使は松明を握り直した。
 もう一方の手を刀の柄に添えかけ、しかしやめて周辺を探るように泳がせた。
 指先は光の輪から決して出ないのだが。
 両手がふさがってしまうことがひどく恐ろしかった。
 寝殿には几帳や屏風が配置され、いくつかの調度が置かれている。検非違使はその前後をくまなく覗き、何もいないことを確かめて歩いた。
 帳台の中も見た。
 気が抜けるほど、何もなかった。
 残るのは。
 横目でそれを確かめる。
 扉は閉まっている。
 塗籠。
 ごくりと唾を飲み下す。
 汗に濡れた手が震えながら扉にのびる。
 掛け金はかかっていない。
 見なくてもよいのではないか。
 見なければならぬか。
 逡巡しながら、どうしようもなく怯えている己に気がついた。
 腕に力を込めた。
 妻戸が開いた。

 においがむっと強くなる。
 真っ暗な塗籠の中に、松明の火明かりを受けて白っぽいものが散らばっている。
 硬質に照らし出されるそれが何なのか考える前に、検非違使は気がついた。
 ひときわ鮮やかに照らされた女郎花の色。
 音もなく、気配すらなく、ゆうらりゆうらり足を動かし。

 蜘蛛。

 女の頭をした巨大な女郎蜘蛛。
 黒髪が床を這い、長い足が半分は身体を支え、半分は何かを抱え。
 口を動かし。
 食っている。
 糸に巻かれた塊。
 女の髪からごつごつした男の手がはみ出している。

 ……たそうだよ……

 頭の中で母の声がはじけた。
 子供ながら幼子と呼ばれなくなった頃、母とともにこの家の前を通った。
 あのとき確かに聞いた。

 ……娘が化生になったのだよ……
 ……男に捨てられて……
 ……恨みつらみで化けてしまって……
 ……家の者を食い殺したそうだよ……
 ……父と母と老いた祖父と……

 きろり。
 女の目が動いた。

 ……恐ろしいこと……

 検非違使を見た。
 底光りする黄色い目。

 ……浅ましいこと……

 検非違使は悲鳴をあげた。固まっていた身体が動きだした。御簾をかき分け格子を突き開けて階を駆け下りた。めったやたらに振り回した松明から火の粉が激しく散った。転がるように庭に下りると、もつれた足からぞうりが脱げてぽつんと残された。
 塗りこめたような闇。
 右も左もわからず、走って走って石につまずいた。
 宙を飛んだ体が生ぬるい水につっこんだ。

 灯りが消えた。
 暗くよどんだ遣水はしばらくたぷたぷと波音をたてていたが、やがて静かになった。

 ――蒸し暑い夜のことである。



灯り





蛇足的あとがき:
「ホラー、平安、30枚」という三題噺のような依頼でした。ホラーは大好きですが、好きであることと書けることとはまったくの別物です。ぜんぜんホラーじゃなくてすみません……言い訳するとクモが苦手なんですという話になってしまうのですが。まったく個人的な事情ですね、すみません……



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