検非違使はざっと室内を眺めて、成果なく西の対を出た。
渡殿を抜けて寝殿に向かう。
何かの気配がする。自分が動きを止めても空気が動いているような。産毛だけが絹の毛羽に触れたような。静寂そのものが音になったような。
床板をきしませながらゆっくり進んだ。
無意識に腰の刀をさぐる。
いざとなれば。
暑さと緊張で汗が滝のごとく湧いて出る。
吸い込む空気は湯気のようで、息苦しさをごまかそうと深い呼吸を繰り返す。
耳の奥でどくどくと血の巡る音がする。
額から、首から、玉になった汗が皮膚を流れ落ちる。
わき腹をしずくが伝って、指でなぞられたようなその感触に身震いした。
きし、きし、きし。
足を踏み出すたびに床板が鳴る。
腐ってはいないようだが、やはり緩んでいるのだろう。廃屋なのだから仕方あるまいとぼんやり思った。
視界の端で何かが動いた。
顔を上げる。
前方にかすかな灯が見えた。
ふわりと揺れて、消えた。
検非違使は横目で寝殿を見やる。
御簾が下がっており、中は見えない。
寝殿を素通りして東の対に向かった。
きし、きし、きし。
床板がきしむ。
この音は聞こえているだろう。乱れた息づかいや鼓動まで伝わっているかもしれない。
重いほど静かな夜だから。
御簾はあがっていた。格子越しに中をのぞく。光の届く範囲に家具はなく、帳台の端だけがぼんやりと輪郭を見せていた。
「誰か」
検非違使の声はかすれて喉にからんだ。
「誰かいるのか」
ふう。
大儀そうなため息。
しゅるしゅると衣擦れがして、身じろぐ気配があった。
人がいる。
検非違使は刀の柄を握りしめる。
「そこにいるのは誰だ」
しゅる、しゅる、と。
衣擦れだけが聞こえてくる。
帳台の中から。
検非違使は格子の奥に目をこらしたまま妻戸を目指す。確かめねばならぬ。何者がこの中にいるのか。
相方であればよいが。
もしそうでなければ。
妻戸は閉まっている。
検非違使はいったん刀から手を離し、扉を引き開けた。軋る音が廃屋に響いた。
すばやく中に入って身構える。
気を張りつめ、すり足で奥へ進む。歩みにあわせて柱の影が形を変える。
うねる影の柱の間を、検非違使の影がゆうらりゆうらり通り抜けていく。
仕切りもなくがらんと広い屋に、ぽつりと帳台だけが置かれている。帳台の中には暗がりがわだかまっている。
しゅる。
闇の中で衣擦れがする。
検非違使は刀の口を切った。
松明を前方にかざす。
ゆっくり帳台に近づいていく。光の輪が少しずつ届きはじめる。輪郭から形に、形から色に、色から物に。
帳の内側が照らし出される。
何もない。
誰もいない。
くあああああああああああああああ
耳もとでひきつった息の音がした。
跳ねるように振り向いた顔の間近、苦悶する老人のゆがんだ形相があった。
ひぃ――
喉が悲鳴をあげ損ねて詰まる。のけぞった勢いで検非違使はしりもちをつき、松明を取り落とした。
鞘が床にぶつかると、弾みで刀身が滑り出た。抜けきらず半分ほど姿を現した白刃をぬめるように灯火が滑った。
しん――
残響が去れば、耳に痛いほどの静寂。
ちりちりと松明が燃えている。
誰もいない。
荒い呼吸が室の中にこだまする。
浅く早い己の息遣いを聞きながら、検非違使は闇のほか何もない虚空を呆然と見上げた。
あの老人は。
見間違いだろうか。
否。
確かに見たし、聞いた。
喉を鳴らして吸い込んだ病的な呼気の、空気の動きを肌が覚えている。
じりじり音がする。
松明が床板を焦がしていた。
検非違使は震える手をのばして松明を取り上げ、火が燃え移っていないのを確認した。
苦しくて口から臓物があふれそうだ。
この家は。
鞘走った刀をおさめながら記憶をたどる。
この家はなぜ絶えた。
もはや曖昧な印象でしかない幼少時、廃屋があるなどという話は聞いた覚えがない。家が断絶したときに大人たちは噂などしなかったろうか。それを子供の自分は聞かなかったろうか。
しゅる。
衣擦れが。
闇の中から。
しゅる。
音のしたほうに灯りを向ける。
何もない。
しゅる。
暗がりから音がする。
検非違使はじりじり後ずさる。
この屋敷には何かがいる。
人でない何か。
身のあるものなら斬ることもできようが、音だけのそれをどうすればいい。
凝らした目に汗が入った。
思わず瞑る。
儚い感触がふわりと首にかかる。
あわてて払った手にからむそれは、蜘蛛の糸のようだった。
そういえば。ふと検非違使は思う。十数年放置された空き家、もっと埃がたまり蜘蛛の巣がかかり、柱は傾き御簾は破れているのが当たり前ではないのか。
なぜ保たれている。
背後を探った手が布地に触れた。
びくりと身をすくめ、しかしおそるおそる見てみればただの壁代である。そのまま布伝いに後退すると、やっと妻戸に行き着いた。
扉を閉める。
冷たい漆喰に背中を預けて息をついた。
もう帰りたい。
だが調べねば。
検非違使はのろのろ身を起こし、重い足を引きずって渡殿に向かう。
背後に気配を感じる。
振り向いたが闇しかなかった。