草の葉に火が移らないよう松明を高く上げて進んだ。残る片手で草を掻き分けると、耳もとで薮蚊の甲高い羽音がした。
 ちくりと首に軽い痛みを感じ。
 ああ刺されたなと思った。
 手足が草擦れでかゆくなりはじめた頃、ようやく中門にたどり着いた。
 ひび割れ傾いた表門に比べ、中門の柱は歪みもなくしっかりしている。
 光の届くあたりには何もない。
 奥は存外荒れていないのかもしれぬと検非違使は思った。
 さきほどの灯りは見えない。
 蛍の光でも見間違えたろうか。
 否。
 確かに火の色だった。
 手燭のような細い細い灯りであった。
「おい、どこにいる」
 小声で相方を呼ばわる。
 返事はない。
 これはいよいよ屋敷内に入ってしまったのであろうと見当をつけた。
 検非違使は覚悟を決めて中門を抜けた。

 ふ、と。
 儚い感触が肌を覆う。
 蜘蛛の巣だろうか。
 検非違使は顔や腕をぬぐった。
 何もなかった。

 中庭の闇はいっそう濃かった。松明の明かりに周囲の地面が照らされるばかり。振り返れば今くぐった中門がぼんやり浮かぶ。門廊が消える先に屋敷が続いているはずだが、光の輪から外れた先は影すら判別できない。
 よどんだ水のにおいがする。
 池か。
 我が手に光があるせいで、あたりの暗がりは墨で塗りつぶしたごとく真っ平らに感じられる。
 さきの小さな灯りは中門からまっすぐ見えたのだから、対になる向こう側の廊下のどこかであったろうが。
 検非違使は庭を横切りはじめた。
 橋板はしっかりしている。
 流れの死んだ遣水に松明が映りこみ、火色の光の中には検非違使の姿がある。
 地面に雑草などが生えている様子はない。表門と中門の間が原野に等しい藪だったのとは対照的だ。

 湿ったにおいが強くなる。
 どことなく生臭い。

 じめじめした夜気がいっそう重くのしかかってくる。闇の深さとあいまってねっとり全身にからみつくように感じた。自分が動くたびにそれが尾を引くような。
 庭の中ほどまで歩いた。
 明かりを灯したのは誰だったのか。
 そんなことを考える。
 相方であろうか。
 無断で棲みついた何某であろうか。
 いま大声で呼ばわれば、正体は知れるであろうか。
 検非違使は腰の刀を探る。
 ならず者の類であったら。
 複数であったら。
 ひとりで切り抜けられるのか。

 相方はどこへいったのか。

 検非違使は口中のつばを飲み下した。
 耳の奥でごくりと大きな音がした。

 突き当たりには柱の上に屋根を乗せただけの透廊がのびていた。外側の柱の先に茫々と茅が生い茂っている。むき出しの地面と草の壁が、線でも引いたようにくっきり分かれていた。
 藪の中から蚊の甲高い羽音がする。
 わざわざ突入する気にはなれない。
 透廊づたいに釣殿に向かう。
 水面に映る火の輪がさざ波だった。
 歩くときの揺れが柱から池に伝わっただけのことだろうが、検非違使には水面下に何か生き物がいるように思われた。
 なまぬるい水と泥のにおいがする。
 検非違使はきびすを返した。
 相方にしろ棲みついた何某にしろ、庭にいないのであれば屋敷の中であろう。
 見たところ外から見た印象よりは荒れておらぬようだ。
 気が進まない。
 検非違使は自然と鈍る足をなんとか動かして透廊の奥へ向かった。
 松明のままでは建物に火が移ってしまうだろうか。
 燈籠を取った。
 油皿はとっくに乾いて埃が積もっていた。
 しかし灯りなしで歩くには暗すぎる。
 検非違使は松明を前に倒した。自然と身構えてしまう。刀を抜いたときのようだ。
 いっそ刀も抜いてしまったほうが良いやもしれぬ。
 相方は戻ってこない。
 ここには不当に棲みつく輩がいる。
 そのくらい警戒してもいいのではないか。
 しかし両手がふさがる。
 灯りか、刀か。
 検非違使は逡巡した。
 目前に廃れた屋敷の闇が口をあけている。
 灯りを選んだ。

 履物を脱ぐ気になれず、どうせ廃屋と自分に言い訳をして、検非違使は土足のまま廊下を踏んだ。
 ぎっ。
 床板が大きくきしんだ。
 びくりと身をすくめる。
 松明が揺れて影もうごめいた。
 苦しさを覚えて大きく息をついた。胸に当てた手には早い鼓動が伝わってきた。
 怯えているのか。
 己の小心を恥じた。
 建物の奥へ進む。
 すぐ目の前に西の対。妻戸は開いている。紗の壁代がかかり中の闇を透かしている。
 検非違使は足を止めた。

 く、く、く。

 しのびやかに誰かが喉を鳴らす。
「誰かいるのか」
 声を絞って問いかける。
 返事はない。
 忍び泣くような声であった。
 笑っているようでもあった。
 検非違使は松明を下げ、紗の壁代に半身を寄せた。目を凝らしじっと耳を澄ます。

 く、く、と。
 かすかな声を聞いた。

 検非違使は紗をめくった。
 すぐそこに几帳があり、検非違使の影が映っていた。
 几帳をまわりこむと寝所の設えがある。
 衣掛けには朝顔色の着物が無造作にかけてあった。女物のようだ。
 しかし誰もいない。
 検非違使はそろそろと腰を落として夜具に触れる。
 冷たい。
 あのひそやかな声は気のせいであったか。
 重いため息がもれた。
 己はこんなところで何をしているのか。
 帰ってこない相方を心配する反面、恨めしくも思った。何かみつけたならば一度呼びにきてくれればよかったものを。そうすればこんなことには。
 言っても詮ないことだが。
 几帳の間を縫って室の残りの部分を確かめようとした。布に松明の火が移らないよう慎重に腕を動かす。

 後れ毛が風に揺れるように。
 さわり。
 何かが耳の後ろに触れた。
 とっさに手をのばす。

 ぷちん。

 指を灯りにかざした。
 小蜘蛛がつぶれていた。






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