【暗夜】
蒸し暑い夜のことである。
湯に浸した頭巾で口と鼻をふさがれているようだ。
息苦しく、腑の中まで熱がこもる。
検非違使は胸と鼻を膨らませてじっとり湿った熱気をいっぱいに吸い込み、しばらく息を止めて、吐いた。
空気はすっかり出ていき、熱がまた体に溜まった。
じわじわにじんで玉になる汗を手の甲で乱暴にぬぐう。
振り払えば指先から雫が散った。
空に月はない。
星明かりはあまりに弱々しく、密度の濃い空気に阻まれて地上まで届かない。
松明だけが頼りの闇夜。
検非違使は大路のかがり火を遠目に眺めながら、松明を片手に小路にたたずんでいる。
小用といって離れた相方がなかなか帰ってこない。
遠くから牛車の音がする。
こんな刻限に妻問いだろうか。
ぎい、ぎい、ぎい。
風が恋しいと思った。
よどんだ空気が少しでも動いてくれれば、このねっとり肌にからみつくような熱気がいくらかは鎮まるのではないかと。
ぎい、ぎい、ぎい。
牛車が遠ざかっていく。
こんな夜に通いとはたいへんだ、検非違使はふっと笑いに似た息を吐いた。
それにしても遅い。
検非違使は傍らの屋敷を振り仰ぐ。
この屋敷は無人になって十数年、手を入れる者もなく荒れるにまかされ、今では野辺のあばら家と変わらない有様である。敷地だけは広いから、夏草が人の背丈ほど生い茂るさまがいっそう無残であった。
相方はこの藪の中に入っていったのだ。
人様の家の庭で小用を足すなど失礼極まりない話だが、この屋敷には文句を言う主もいない。
じゅっと松明が音をたてた。
一瞬明るくなった火の中で蛾が一匹燃え尽きた。
「おい、まだか」
返事はない。
時おり草むらがざわつくものの、相方が出てくる気配はいっこうになく、蛇だのねずみだのが走ったのだなとため息をつくことになった。
さて、いかにも遅すぎる。
腹でも壊してうずくまっているのか。
検非違使は崩れかけた門から中を覗いた。
ぼんやりと明かりがある。
小さく、ちろちろ揺れる光であった。
相方は松明を持っていないはずだが。
検非違使はにわかに不安になった。
何者か棲みついているのではないか。
もし家を失うなどした浮民が入り込んでいるなら追い出さねばならぬ。それなら面倒はないが、よもや夜盗ならず者の類であったとしたら。
わき腹を汗が流れ落ちた。
相方はまだ戻ってこない。
まさかひとり先行して確かめにいったのではないか。まさか棲みついた何某かと遭遇してしまったのではないか。まさか返り討ちにあったのではないか。まさか。
検非違使は頭を振った。
そして藪の中に入った。