【クローズフィールド】



 ケネス・ダイアー神父が伯父の訃報を受け取ったのはリンゴの香りが街路に溢れる10月の末、風の強い黄昏時だった。その日は朝から鉛色の雲が垂れこめ、気むずかしげなロンドンの空がいっそう不機嫌に見えた。


 使者を乗せた馬車の音が風に運ばれていつもより長く聞こえていた。


 伯父のことを話すと、友人は短く祈りを捧げてくれた。
「実家はロングコンプトンだったね……これからすぐに発つ?」
「ああ。1ヶ月ぐらい留守にすると思う。追悼ミサぐらいはきちんとお勤めしてくるさ」
 友はそっと頷いた。彼の顔に蜂蜜色の髪が落ちかかる。自分をみつめているはずの彼の双眸が、もっと遠いところに焦点を結んでいる気がする。瞳の色が薄いせいだろうか。ケネスはときどき、この友人と自分が見ている世界は同じものなのかどうか疑問に思うことがある。
 友は机の引き出しを開けて銀の十字架を取り出した。
「気をつけて」
 ケネスの手を取り、十字架を握らせる。沁みるように冷たい。
「もうすぐ冬の一年が始まるから」
「冬の一年?」
「生者のための夏と死者のための冬が入れ替わる……だから、境界に近寄ってはいけないよ」
 友はゆっくりとまばたきをしてケネスの目をのぞき込んだ。
「ケニー、みっつ、忘れないでほしいことがあるんだ」
 風の音が消えた。
「決して食べ物や飲み物を口にしないこと」
 彼がじっとみつめている。
「決して踊りの輪には入らないこと」
 彼の瞳は水鏡のようだ。
「決して彼らの名前を呼ばないこと」
 青ざめた湖面にケネスの姿が映っている。
「いいね、忘れてはいけないよ」
 彼がまばたきをする。
 ケネスはいつのまにか詰めていた息を吐き出した。友はやわらかい髪を揺らして笑った。


 小鳥が一羽、窓辺から飛び立った。


 伯父のエドワードは独身のまま家に残り、食事以外の時間はほとんどひとりで過ごした。だがケネスが小さい頃は実の父親よりずっと長く一緒にいたものだ。父親は仕事が忙しく、家にいる時間が少なかったのだ。
 やがてケネスはロンドンの寄宿学校に入り、伯父と疎遠になった。伯父は都市が嫌いだった。長期休暇で家に戻ると、彼は「街のにおいがする」と言ってケネスを遠ざけた。
 ケネスは実家に帰らなくなった。
 伯父の患いの知らせを聞いたのは2年ほど前である。ケネスは見舞に行かなかった。いちおう血縁と一線を引くべき職に就いたからだ。
 一週間前に伯父の容態が悪化した。
 ケネスは帰らなかった。


 荒野の土が靴の下で砕けた。


「やれやれ……月が明るくて助かったよ」
 土塊を踏んだのをきっかけに足を止め、空を見上げて呟いた。息が白い。もしかしたら、今壊したのは土ではなく、気の早い霜柱だったかもしれない。
 ケネスは冷たく湿った風を思いきり吸い込んだ。
 朽ちかけたヒースの実と泥炭のにおいがして、少しむせた。
 荒野は月光に照らされて青白い。
 これは大地の老いた姿だ、そう言ったのは誰だったろう。


 風が吹いてヒースの藪がざわざわ鳴った。


 ケネスが吐いたため息は白い霧になって消えた。
 なにもかもが寒々しかった。実家のある村までは最寄りの街で列車を降りて約3マイル、近道をして荒野を横切れば2時間とかからない。そう楽観したのが失敗だった。
「馬車にすればよかったかなあ」
 声がどこまでも荒野を流れていく。
 今更悩んでもしかたないので、ケネスはまた大きく息を吐いて歩き出した。夜空の際がほんのり明るい。案外村の近くまで来ているのだろう。
 足下が下草に覆われた丘の斜面に変わった。登りきれば教会が見えるはずだ。


 気をつけて。


 ふいに友人の声が耳の奥に蘇った。
 鼓動がひとつ、大きく跳ねた。
 意味もなく辺りを見まわす。夜の丘にはケネスの他に人影などない。風が吹くたびにざわつくヒースの藪も、人が隠れられる大きさでなし。
 だが聞こえる。
 これは人の声だろうか。


 もうすぐ冬の一年が始まる。


 あのとき、友人の色の薄い瞳にケネスが映っていた。あれは本当に自分だったのか。友は自分ではない、別の何かを見てはいなかったか。
 音が聞こえる。人の声と、これは音楽か。村で祭りでもやっているのか。明日は諸聖人の日であることだし。
 きっとそうだろう。
 丘の麓に篝火が立てられ、長テーブルにはたくさんの料理と酒。大人もいれば子供もいて、みんな楽しそうにはしゃぎ、踊り。
 古風なドレスを纏った女性が振り向いた。
 彼女はとまどうケネスにほほえみかけ、白い手をさしのべた。指先から金色の光の粉が散った。


 だから、境界に近寄ってはいけないよ。


 ケネスは案内されるまま椅子に腰掛けた。
「こんな夜に旅などたいへんだろう、お若い方。酒は体が温まるよ」
 隣の男が杯を差し出す。黒い髭を生やした中年の男である。知っている気もするが、似た面影の人と間違えているだけかもしれない。
 ケネスが困惑していると、男は人なつっこい笑みを顔一杯に広げた。
 おそるおそる杯を受け取った。
 銀色の重い杯。
 後ろを通りかかった娘が足を止め、酒壺を傾けた。
 注がれた酒は篝火を受けて金色に波打った。
 ほんのり甘い香りが杯からたちのぼる。ウイスキーではない。リンゴだろうか。あるいは……古い伝統に則って蜂蜜を使ったのかもしれない。
 隣の男も酒をついでくれた娘も、にこにこしながらケネスを見守っている。
 杯が干されるのを待っている。
「ありがとう。でも、もう充分あたたまりました」
 友人の忠告を思いだして杯を置いた。
 向かい側に座った老婆が乱杭歯のすきまからしゅうしゅう息をもらして笑った。
「では踊っておいでなさい、お若い方。娘たちもあなたが輪に加わってくれたらきっと喜ぶでしょうよ」
「実は痛めた膝がまだ治りかけなのです。せっかくのお誘いをお受けできなくて残念です」
 膝を痛めたのは嘘ではない。もう完治しているだけで。
 他に何か言われる前に、ケネスは席を立った。
 ひどく不安だ。
 なにかがおかしい。
 ポケットに手を入れる。友人から預かった十字架の冷たさが指先に沁みて、少し落ち着いた。
 なにかが起こっている。
 自分にはわからない、だが確実に自分を巻き込んでいるなにか。
 気になることがある。
 その正体がわからない。
 大切なことを忘れている気がする。


 忘れてはいけないよ。


「お疲れかね、お若い方」
 ケネスは慌てて振り返った。
 白金の髪をした老人が立っている。もともとはもっと濃い色の髪だったのではないか、そう思ったのは、老人が知っている人物に似ているから。
「それならばもうお帰り。今は他の誰もこちらを気にかけていないから」
 よく知っている人だ。
 本当に似ている。
「十字架をしっかり握りしめて、しかしそれを他の者には見せないように行くのだよ」
 もう何年会わないでしまったのだろう。
 二度と会えないはずの。
「彼らは信仰の深い者には手出しできないが、徴を見れば宴を台無しにしたと言って怒るだろう」
「おじ……」


 忘れてはいけないよ。


「……心配のないことです、ご老人」
 忘れない。
 彼の名を呼んではいけない。
「けっこう」
 老人は満足げに笑った。
「大切なしきたりをご存知なのだね、お若い方。たいへんけっこう」
 たいへんけっこう。
 口癖だった。
「ひとつ頼まれてはくれまいか、お若い方」
「自分でかなうことでしたら」
「この先に住んでいるダイアーという家の人々に伝えてほしいのだ……老人は満ち足りた、と」


 やはり、あなたは。


「わかりました」
 エド伯父さん、と。
 心の中で呼んだ。
「……もう行きます」
 ケネスが言うと、老人は頷いた。
「あなたに会えてよかった、ご老人」
「わたしもよかったと思っているよ、お若い方」
 彼の返事を背に聞いて歩き出す。ポケットの中で友の十字架を握りしめた。ケネスの熱を吸うことなく、しっとりと手に馴染みながら、沁みるように冷たい。
 あと一歩で火明かりの外に出る。
 ケネスは振り返った。
 あの乱杭歯の老婆は雑貨屋の先代の奥さん、酒を注いでくれたのは粉屋の末娘、杯をくれた男は近所の農夫。それから……
 あそこにいるのは死人ばかり。
 夏の一年の最後の夜、死者は妖精たちとともに宴を開くという。


 伝説だ。


 光の外に出た。丘の稜線が黒々と夜空を切り取っていた。明るいと思っていた月は実際のところ糸のように細い。つまりこの荒野に足を踏み入れたときからおかしかったと。
「そういうことか」
 ひとり笑う声が丘に響いた。
 銀の十字架をポケットから出してみた。古びて黒ずんでしまったのが星明かりでもはっきりわかる。
「あー……と」
 確か祖父の形見だと聞いた。しかしまあ、あの友人のことだから、おかげで助かったとでも言えば笑って許してくれるだろう。
 宴の光はもう見えない。



リトアニアの丘






蛇足的あとがき:
これを書いたときのお題は「晦」でした。このどちらかといえば和の響きを持つ言葉を聞いてまっさきに思い浮かべたのがハロウィーン……頭の中身が偏っているのでしょうか……
「クローズフールド」は実在しますが(タイトルは地名からそのままいただいています)、このお話の舞台は「よく似た別の場所」と思っていただければ幸いです。



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