王の軍隊は朝のうちに都を出た。
ティパンキは見送ることさえ許されず、家の中で戦太鼓の音に耳を傾けていた。やがて歓声があがる。王の出陣である。
人の声と太鼓の響きがだんだん遠くなり、あとには死んだように静かな街と、ティパンキが残された。
山肌に走る稲妻型の道を戦の行列が進む。
冷たい風が吹きつけた。
ティパンキはベルトを腰に巻いた。ナイフを足にくくりつけ、剣を穿いて部屋を出た。
シラピナが織り物の手を止めた。
「行くのですか」
「行く」
「来るなと、王はそうおっしゃったのではなかったのですか」
妻は夫を見なかった。
錘を握りしめた自分の手を見ていた。
「あなたに生きろとおっしゃったのではなかったのですか」
「俺はこのままでは生きられない。体は生きても心は生きられない」
来てはならない、二度と姿を見せるな。
残党までは追わないから森に逃げろと、王はそう言いたかったのだ。ティパンキが王を裏切った一族と同じ血を持っているから、助けるにはこの国から追い出すより道がない。
「おまえも、王も、皆が俺を救おうとしてくれる。だが命だけ永らえて何になる……俺は王の戦士だ」
「聞きたくありません」
「俺の命は王のものだ。自分でそう決めて、これまで仕えてきた。いま命を惜しんで王のもとを去れば永遠に後悔する。俺の心は死んでしまう」
十五歳になったティパンキがこの国に来たのは、シリ族の忠誠を形として王に示すためだ。最初は統合された部族から差し出された兵士のひとりにすぎなかった。
だが王はティパンキに目をとめてくれた。
言葉に尽くせないほどの恩を受けた。家族のように、友のようにふるまうことを許された。
そのときから王に命を捧げることを自分に誓ってきた。
「‥‥抜け殻になった体だけが生きて、いったいなんの意味がある」
王のために生き、王のために死にたい。なにより自分がそう望む。
心を殺すことはできない。
「おまえと森で暮らすことも考えた……だが無理だ。俺はもうずっと前に、自分の命の使い方を決めてしまった」
妻から返事はない。
「すまない」
ティパンキは重い息をついて歩きだした。
「お待ちなさい、戦士」
シラピナは立ち上がっていた。
その手に木の椀を捧げ持って。
「……シラピナ……」
ティパンキのとまどいに応えて笑った。
妻は真っ赤な染料の塊に水を差し、震える指で夫の顔にもようを描く。額と頬に斑点を入れ、目尻からこめかみに線を引いた。
ジャガーのように。
「お別れです、わが夫ティパンキ……もうお会いすることはないでしょう」
できあがった夫の戦化粧を見て、妻はふたたび笑顔を見せた。
「私は幸せでした。これからはあなたの妻であったという誇りを支えに生きましょう」
森の民は自分の魂の半分が夜に動物となることを信じ、とりわけジャガーは優れた戦士の半身として尊敬された――かつて妻に話したことがある。彼女は見たことのない世界を夫の言葉で覚えていた。
「あなたに守護霊の加護がありますように」
「ありがとう――わが妻」
彼女は静かに頷いた。
ティパンキは家を飛び出した。王の軍隊は半日近く先行しているが、絶対に追いつける自信があった。
傍らを走るジャガーの気配を感じた。魂の半分が戻り、彼は完全になった。
これから自分は同じ血をたくさん流す。戦が終われば王の剣がティパンキを斬る。そのとき自分は、王の夢に現れたジャガーのように首を差しだそう。
大路で足を止め、振り返った。
妻は戸口に立っていた。長い黒髪は風に流れ、服の裾がひるがえってティパンキの目に鮮やかな色を振りまいた。しっかりとした立ち姿だった。
彼はふたたび駆けだした。魂の力を借りて獣の速さで道を駆け下り、岩を跳び越えた。風は彼を追いたてるように強く吹きつけた。
二度と振り返らなかった。
シラピナは小さくなっていく夫の後ろ姿をじっとみつめた。風が山の上から彼の背に強く吹きつけていた。戦士は解き放した黒髪を踊らせながらあっというまに道を駆け下り、ジャガーのように軽やかな身ごなしで岩を跳び越えた。
そして見えなくなった。
天のどこかでコンドルが鳴いた。
戦士の妻は地に伏して号泣した。
* * *
アマゾンにアヤワスカと呼ばれる植物が存在する。死者の蔓、あるいは精霊の蔓という意味である。
アンデスに広大な国があった時代、王に重用された戦士がいた。この国は文字を持たなかったため、名は記録に残っていない。だがアンデスの西の密林に住むシリ族の血を引いていたという。あるときシリ族が反乱を起こす。戦士は王とともに戦い、のちに一族のひとりとして処刑された。
アヤワスカは彼の墓から芽吹いた。
戦士の魂は妻に蔓の使い方を教え、妻はアヤワスカを用いた最初の呪術師となった。
国は呪術を得たことで栄え、版図を広げていく。戦士の墓から生まれた蔓は密林に根づき、多くの優れた呪術師を生んだ。
やがて王国は滅んだ。
アヤワスカの秘術は、今では密林のなかにひっそりと息づくのみである。

蛇足的あとがき:
アヤワスカもそれにまつわる伝説も実在しますが、この物語はフィクションです。戦士や妻の本当の名前、それどころかいつの時代なのかも調べきれなかったので、勝手につけさせていただきました。
なので、これは歴史ではなくファンタジーだと、自分では思っています。