王は今朝起きてからずっと行方知れずである。ティパンキにそう教えた侍従長は半泣きだった。今日は祭りの打ち合わせで神官たちが山を下りてくるのだと、事情を聞けば泣きたくなる気持ちも理解できる。
 探してみると言ったが、本当はそんな必要などない。空を見上げれば城壁の上に深紅のマントがひるがえっている。
 ティパンキは石組みを伝って城壁によじ登った。王が振り返って笑った。
「やはりそなたが来たか」
「物見台に上がれば街は見えます、王。わざわざこんなところに登らなくても」
「わたしがあちらに行くと見張りの兵が緊張しどおしだ。かわいそうではないか」
 王は同意を求めるように首を傾けた。豊かな黒髪に今日は金糸が編み込まれ、風に吹かれて陽光を弾いた。
 黒い瞳は対照的に暗く沈んでいた。
「王、いかがなさいました」
 王はティパンキから目をそらし、街の方角に向き直った。
「なんでもない」
「ではあまり皆を困らせてはいけません。侍従長が泣きべそをかいていましたよ」
 返事がない。
 風が吹いてマントの深紅と髪の黒と、金糸のきらめきがティパンキの視界を覆った。
「王、俺にも言えない事ですか」


 空の高いところでコンドルが鳴いた。


「忘れたのだ」
 王がぽつりとつぶやきを落とす。
「目覚めたとたんに忘れてしまった。だがとても不愉快だった。そんなことばかり覚えているから、朝から気分が悪くてな」
 ティパンキの脳裏に夜明け前の青が広がる。黒々として自分を取り巻く暗い森の。
 まばたきをすると、彼は城壁の上で冷たい風に吹かれていた。
 あれは夢だ――意味などない。
 王も夢をみたのだろうか。
 ティパンキは街を見下ろした。王の都はピューマの形をして、力強く山並みを踏みしめていた。
 岩肌を巡る細い道をリャマの列が進む。
「何か話をしろ」
 王の声が乾いた風に流されていく。
「どんな話がいいですか」
「そなたがよく知っていて、わたしの知らない話がいい」
「難しいですね」
 ティパンキは苦笑した。彼の故郷はこの険しい山脈の北西側に広がる密林である。そこはティパンキが十二歳のときに王のものになった。
「俺の育った場所は王のものになりましたから、王が知らない話はほとんどありません」
「わたしには森がわからない」
 王が頭を上げる。山から吹き下ろす冷たい風に髪が踊った。王の黄金の耳飾りは陽光に輝き、跳ね返った光がティパンキの目を射抜いた。
「土地はわたしのものになった。だが密林の世界はわたしのものではない。水と熱にあふれたあの森は精霊と魔物と魂のすみかだ。神がいない。わたしにはみつけられない」
「王」
「領土にしておきながら、わたしには森の治め方がわからない」
 それきり王は口をつぐんだ。


 山の上をコンドルが飛んでいた。


「森にいるのは神ではありません。少なくとも王が知るような姿形はしていない」
 返事はない。
「言葉で説明するのはとても難しい。表し方も部族ごとに違います。だがたぶん、似た性格のものは同じことを示している」


 コンドルは翼を広げたままゆっくりと高度を落とし、いきなり舞い上がった。白と黒の翼があっというまに小さくなり、雲ひとつない青空に吸い込まれていった。


 ティパンキは鳥が小さな点になるまで見送って、王の背中に目を戻した。
「俺のわかることでよければ話しましょう。なんとかやってみます」
「遅かったかもしれぬ」
 王の声は重い。
「見ろ、ティパンキ」
 王が街を指さす。大路をしずしずと進んでくる、あれは神官たちだろうか。
 後ろから伝令が駆けてくる。
 神官の列が道を開けた。伝令は走りながら叫んだに違いない――神官たちに道を譲らせるほどの出来事について。
「また戦が始まるぞ」
 王が体の向きを変えた。向き合うと、王は笑っていた。暗い笑みだった。


 伝令は広間で待っていた。列臣たちはすでに部屋の隅に並び、落ち着かなげにささやきを交わしながら王の着座を見守った。
 ティパンキは王の傍らに立った。そこが彼の定位置だった。
「急使は何用をもって参った」
 王の言葉が石壁の広間にこだまする。伝令は深く頭を垂れ、許しを得て顔を上げた。
「反乱が起きました」
「火種はどこだ」
「北の森です」
 伝令はちらりとティパンキに視線を走らせる。それからひどく言いにくそうに、震える声でつけ足した。
「その……密林の……シリ族です」
 王が振り返る。
 ティパンキは茫然と王の目をみつめ返した。神官たちが到着したと言触れる声がずっと遠くに聞こえた。


 シリはティパンキの血族だった。



* * *




 黄金の胸当てを赤い飾り紐で結ぶ。全身を赤と金で飾った王の姿は遠くからでもよく見える。敵の標的にもなるが、それ以上に味方の士気が上がる。
 王は太陽の化身として、太陽の色した武具をまとい戦場に出る。
 ティパンキは深紅のマントを王の肩当てに結び止めて、一歩うしろにさがった。窓からの陽差しを受けた王は薄暗い部屋の中で金色の光に包まれていた。日に灼けた肌が赤く照らされ、その上で長い黒髪はいっそう暗く波打っていた。
「これでよい。雄々しいお姿です」
 言うと、王は口の端だけで笑う。
「もっと早く森を知りたかった」
 皮肉げな声だった。
「密林の民を平和に治めたかった」
 王がティパンキに背を向ける。深紅のマントも長い髪も身を返すのに合わせて揺れただけで、あとは重く王の背を覆うばかり。


 ティパンキは沈黙していた。言葉がみつからなかった。
 山から乾いた風が吹きおろす。城壁の石組が空気を裂いて甲高い音をたてた。


「明け方に夢をみた」
 ひとりごとのように王が呟く。
「思い出した――とても美しい獣だった。金の毛皮に花の形をした黒い斑が散っていた。このあたりでは見ない、森の生き物だ‥‥黄玉のような澄んだ目をして」
 淡々と王は語る。ティパンキは光に縁取られた王の後ろ姿をみつめたまま、独白めいた言葉を聞いていた。
「わたしに首をのべていた。斬れというように。わたしはためらった。獣はじっとわたしをみつめて、もう一度首を差し出した――わたしは剣を抜き、獣の首を打ち落とした。血の色までもが美しかった‥‥殺したくなどなかったのだ。だがそうせよと‥‥逃げもせずに、自分から‥‥」
 思い出さなければよかった、王はため息を落として、窓枠に添えた手を握りしめた。
 関節が白く浮いていた。
「このたびの戦、そなたは来てはならぬ」
 王は振り向かない。だからティパンキには王の顔が見えない。
 見られたくないから振り向かないのだ。
「俺がシリ族だからですか」
「そうだ」
 ティパンキは深紅の背中に手を伸ばした。王の緊張が伝わってくる。動揺のままに震えるのでなく、立ち向かうことを選んで限界まで堅くなった感触だった。
「だが戦のあいだ、そなたのことは忘れる」
 そなたを呼ぶことはせぬ、そなたを戦わせはせぬ――王の口から息つく間もなく言葉が飛び出す。まるで自分に言い聞かせているように思えた。


 風が城壁にぶつかって悲鳴をあげる。
 ティパンキの耳にはごうごうと濁流の吠える音が響いていた。
 これは血の音だ。
 王には聞こえているだろうか。


「戻ったあとにそなたを探す。シリ族はわたしを裏切った。一族はみな責めを受ける」
 王が身を翻して歩きだした。
「行け。二度とわたしの前に姿を見せるな」
 部屋を出るまで、ついにティパンキの目を見なかった。





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