【アヤワスカ】



 こんな夢だ。
 ティパンキは川辺に立っている。明け方の青い色のなか、熱帯の森は真っ黒な影になってティパンキを取り巻いていた。
 どこか遠くでホエザルが声をあげた。
 風が川面の朝もやをさらって渦を巻いた。真昼の煮えたぎるような暑さはまだないが、大気にいろいろなものが混ざりこんで息苦しささえ感じる。
 ティパンキは大きく、ゆっくり呼吸した。
 頭の上で名前も知らない蔓草が揺れた。


 ――心を選ぶか。


 声がする。
 振り向けば一頭のジャガーが佇んでいた。暗い森を背景に、金色の毛皮が輝くように感じられる。黒い斑は藍色の空気に溶けていっそう暗く花ひらいている。


 ――血を選ぶか。


 ジャガーはゆったりとした足取りでティパンキに歩み寄る。
 毛皮が息と歩みとに合わせて優美に波打った。


 ――心に従うならば血がおまえを裁くだろう。


 ティパンキはじっと獣の目をみつめた。
 深い影が落ちてはっきりとは見えなかった。


 ――血に従うならば心がおまえを裁くだろう。


 パウヒル鳥が笛のような声で鳴いた。密林の夜が終わる。
 そんな夢だった。



* * *




 ティパンキは夜明け前に目をさました。山の冷たい朝もやが室内に忍びこみ、明け方の闇を青く薄めていた。
 半分閉じたままの目で石の天井を眺める。長い息を吐けば石壁がそのかすかな音をはじき返した。ここは石の都だ。密林をはるかに見下ろす、山の上の巨大な王都。
 ティパンキが王都に住むようになってもう十年が過ぎた。なぜ今さらあんな夢をみたのだろう。むせかえるほど命に満ちた樹海、肌を押し包む重い空気、果てのない川――あれは生まれ育った世界だ。今生きている場所ではない。ここにはホエザルもパウヒル鳥も、ジャガーさえいない。自分はそれらから遠く離れ、コンドルとピューマを崇める国にやってきたのだから。
 故郷では美しく残酷なジャガーを尊敬していた。優れた戦士の魂は夜になるとジャガーに変わり、獲物を求めて密林の闇を駆けると信じられていた。
 今は。
「あなた、お目覚めですか」
 部屋の外から妻が呼んだ。
 いつのまにか夜も明けていた。
 起きあがると長く伸びた髪が首筋を滑り落ちた。はじめて王都に来た十五歳のとき、ティパンキの髪は肩の高さで切りそろえられていた。今は腰の高さでそろえている。
 ここは異郷だ。
「よく眠れなかったのですか?」
 妻シラピナは夫のすっきりしない表情を見て、心配そうに眉を寄せた。
「夢をみた。明け方に……」
 ティパンキは言葉を探した。
「森の夢だ」
 故郷の、とは言えなかった。話したくない。なぜかそんな気がした。
「たいしたことではない」
 意味などない。  そう思いたかった。
 話すことで意味が見えてしまうかもしれない――そんな不安が胸にわだかまっていた。
 シラピナはものがなしい笑みを浮かべ、しかし深くは追求せず。
「わたくしも、夢をみました」
 さしこんできた朝日に目を細めて言う。
「――コンドルの夢でした」
 そしてやはり多くを語らなかった。


 ティパンキを仕事に送り出したあと、シラピナは洗濯物のなかから繕わねばならない服を選りわけた。ほとんど夫の服だった。
 この国の男たちは武器を持つ。戦いのために持ち、狩りのために持ち、儀式のために持つ。服がすり切れたり裂けたりするのは日常のことだ。だからこの国の女たちはよく機を織り、裁縫をする。
 服の破れ目を直しながら、シラピナは明け方の夢を思い出す。
 彼女は聖なる山の頂に立っていた。空は高く澄んでいた。眼下に広がる王都はピューマの姿をして、太陽の光を受けて力強く山並みを踏みしめていた。


 種は育ち――刈り取られる。


 天空から声が降ってきた。
 見上げるシラピナの頭上にぽつんと黒い点があった。


 心せよ――収穫のときがくる。


 厳かな声が地上に降り注ぐ。はるか高みの黒点はゆっくりと輪を描いている。
 神聖なるコンドル。


 命と魂を秤にかけよ――供物を捧げるときがくる。


 戦がはじまる。
 夫はまた戦場に立つのだ。彼は王の戦士だから。
 シラピナはそっと目を伏せ、つくろいかけの服に顔を埋めた。夫の服からは彼女の知らない川の匂いがした。





トップへ 提出品置き場へ 次の章に進む