ぴたん。
どこかで水がしたたる。
アルトールはそのかすかな反響に耳を澄ました。石壁は音を跳ね返して、ゆっくり吸い込んだ。
アルトールはひとりで舞曲王の遺跡に入った。これで九度め。
きりきりと歯車の動く気配がする。
そしてあの扉の前に立つ。
何度か深呼吸をした。
アルトールは教わったとおり喉を開いた。いつも胸に低くこもっていた声が通路いっぱいに広がって石畳に跳ねた。聞き慣れたのとはまったく違う音で、アルトールはとまどいながら、しかし歌い続けた。
最初は自信たっぷりに、言い聞かせるように歌うのです。
旅人の指導はそのようであった。
朝に歌えば目覚めを誘うように、夜に歌えば千々に乱れる心を魅了しひとつにして抱きしめるように。それから……静かにささやいて。
王はまどろみながら聞く歌がお好きでしたから。
王は歌を聴きながらみる夢がお好きでしたから。
あなたを取り巻くすべての世界を愛しながら歌ってくださいねと、旅人は言った。
アルトールは世界を愛してなどいない。
だから日常に訪れる心休まる瞬間と、あらゆる思い出のために歌った。アルトールにはそれが限界だ。
声が震えだした。
疲れが出たのか緊張のためか、墓所に反響する自分の声がひどく揺れているように感じられた。
教わった歌はまだ中程までしか進んでいない。
きりきりと歯車がまわる。
震えているのはアルトールの声ではなく遺跡そのものだ。大きな仕掛けが動きはじめたのか、壁の中の音はこれまで聞いたよりずっと大きかった。
「生身の喉を失ったわたしにこの仕掛けは動かせなかった」
旅人はアルトールのすぐ傍らに立っていた。
きっと彼は笑っているだろう、アルトールは思う。あの優しく悲しい顔で。
「わたしの声はもう――音ではありませんから」
ぎいい……ん……
扉の蝶番が重い軋みをあげる。
――もう一度来ようと相棒が言った。
ふたりで組んではじめて突破できなかった遺跡だから。
もっと調べて、あの扉を開けて、何が眠っているのか確かめよう。
またここに来ようと相棒が言った。
やっと約束を果たせる。
最後の扉が開きはじめる。
アルトールが持つランタンの明かりが玄室の闇を少しずつ切り開いていく。
「中にわたしが使っていた楽器があるはずです。それから王の身のまわりのものもいくつか……あなたにさしあげます。王も否とは仰有いますまい」
ほんのお礼です、旅人がそう言った。
ぎしん。
仕掛けが完全にかみ合う音。
歌の最後の響きがゆっくりと通路を伝い、遠くへ伸びて――聞こえなくなった。
静寂。
開ききった扉の向こうにぼんやりと白い影が見える。旅人が足音なく歩きだした。アルトールはランタンのシャッターを閉めた。光がなくなると影ははっきりした人間の姿になった。少し小柄だ。少年のよう、といえばそうかもしれない。
肖像画すらない短命の昏君――舞曲王。
旅人が音もなく進み出て、主君の前にひざまづいた。
「わがきみ」
楽士がいとおしげに呼んだ。
王は満面に笑み浮かべた。
「やっと来たか」
楽士は顔を上げた。アルトールには後ろ姿しか見えない。
だが、きっと。
舞曲王は膝を折り、子供がするのと同じ仕草で楽士に抱きついた。楽士はそっと両腕を主君の背にまわした。
「もうどこへも行くな……私の歌い鳥」
王ははしゃいだ子供の声をあげ、大きく節の目立つ大人の手で楽士のマントをにぎりしめた。楽士は優しく主君の髪に頬を寄せ。
アルトールを見る。
少し悲しげな、とても幸福そうな表情だった。
ありがとう。
届いた言葉は確かに声ではなかった。
アルトールはほほえみを返した。彼と出会って以来はじめて笑ったのだなと、今このときにはまったく関係ないことに気がついた。
ランタンのシャッターを開ける。
王と楽士の姿は光が強まるごとににじんで、見えなくなった。
思ったより時間はかからなかったようだ。外に出ると強い陽差しがアルトールの両眼を刺し抜いた。痛みを覚えてきつくまぶたを閉じる。
歌ってほしいと相棒が言った。
だが歌は自分の生業ではない。
アルトールは目を開けた。
風の色に覚えがある。
相棒とふたりで歩いていた頃、夏はいつもこんなふうだった。梢を透かす緑と真っ青で深い空。そんな縁取りの、口ではとうてい言い表せない鮮やかな世界。
「お前の居場所など知らんからな……勝手に聴きにこい」
アルトールは呟いてちいさく笑う。
ささやくように、相棒がよく歌っていた旋律を口ずさんだ。

蛇足的あとがき:
企画のために書きはじめ、なかなか終わらない気配におののいているうちに筆がストップ(仕事と体調と……衝動の波の都合で)してしまい、しばらく放置した話です。アルトールの背景は深い霧の向こうにうっすら見えるのみですが、彼にもいろいろあったようです。筆者にもまだぼんやりとしか見えていません。
「舞曲王の墓所」は3部作の最後の話なのかもしれません。「王さまと楽士の話」、「アルトールとその相棒の話」に続く最後の物語。ほかのも書けるといいなあと、本人は思っていますが……こればかりは自分の筆の向きようなので、どうなることやら。
いわゆる恋愛というものよりも強く結びつく、そんな愛情関係が好きです。主従でも友情でも家族でもいいんですけどね。だから北欧やケルトの「王と楽士の関係」にはとても憧れます。