目覚めたときから眠りに落ちる瞬間までに目に入る、たくさんのちいさな物事。
そういったものばかりで綴られる歌だった。
「なぜあんたがやらない」
歌えと旅人は言った。一音一音、教えるからと。それは歌うたいの仕事ではないか。素人のアルトールが今から練習するより、はるかにたやすいはずなのだ。
「何度も言わせないでください。わたしには無理なのです」
「歌はあんたの専門だろう」
旅人が静かに――笑った。
「声が必要です」
翳りのある笑みだった。
「あの扉は、わたしの声では開かない」
深い緑の瞳がアルトールを映している。
アルトールは練習を続けた。
ばちんと大きく火の粉が散った。
だいたいの音程を覚え、これ以上は喉を痛めるからと歌いやめて、気づくとあたりはすっかり暗くなっていた。
どこかでふくろうがほうと鳴いた。
「あなたはなぜあの遺跡に入りたいのですか」
たき火のそばに腰かけた旅人が火をみつめたまま問う。
干し肉と乾パンと水で粗末な食事を終えたアルトールは、口もとをひきしめたまま顔を上げた。
「理由が必要か」
低く問い返す。
沈黙。
ほうほうとふくろうが鳴く。
アルトールは重い息を吐いた。なんだか息苦しい。
「俺は宝探し屋だ。遺跡に入るのはあたりまえだろう」
「嘘ですね」
「嘘ではない」
「では言い方を変えましょう」
「目的は宝探しではないはずです」
アルトールは目を眇める。旅人は火明かりに照らされてにじんでいた。確かだと感じるのは、強い視線ばかり。
ぱちんと薪が爆ぜた。
「もう寝る」
アルトールは旅人に背を向けて横になった。おやすみなさいと旅人が言う。やわらかな声が葉擦れにとけこむのを聞きながらマントにくるまった。
かつてアルトールには相棒がいた。
吟遊詩人で、護身程度に剣を扱い、盗賊のような手業に通じていた。
アルトールは武器一辺倒だから魔法の不得手な組み合わせになる。ゆえに魔法が関わる遺跡を避けて探索し、ときには護衛や手紙運びの仕事をする。
そうして何年か暮らした。
この「舞曲王の墓所」にはじめて挑んだときも相棒とふたりだった。そしてやはりあの扉で立ち往生した。調べ直してもう一度来よう、相棒の言葉に従いアルトールは墓所を出た。
それがふたりで行った最後の遺跡探索。
相棒は次の遺跡で魔物に襲われ、死んだ。
闇の輪郭を見分けられるようになった頃、やっと眠気が訪れた。
アルトールは目を閉じる。
ふくろうは飛び去ったようだ。
――歌を歌ってほしいと相棒が言った。
ほかにはなにも望まなかった。
墓標も、花束も、祈りの言葉も、涙も。
ただアルトールに歌ってほしいと相棒が言った。
そんな昔の夢をみた。
まぶたに光が差した。アルトールは無遠慮な朝陽に眉を寄せ、仕方なく目を開けた。
旅人はすでに起きていた。
「おはようございます」
「早いな……寝言でも言って起こしたか」
「いいえ」
まなざしに嘘の影はない。
その日は歌詞を覚えることに専念した。難しい言いまわしも特別なこともない、なんの変哲もない日常の物事。それがつらい。
混じるのだ。
さっき終わったところをもう一度繰り返してしまったり、ふたつみっつ飛ばしてしまったり。
「どうしてこんなものを」
ついぼやきたくもなる。
旅人はそのたびに笑った。
「王さまはこういった些細なものほどお好みになったのですよ」
いとおしげに。
舞曲王の話をするごと、旅人の態度は知人のそれに近づいていく。
断言することが多くなった。
語るたびに心がこもった。
だが舞曲王は古い存在である。彼を直接知るものは今やすべて土の下。もし旅人が王を知っているというなら――
彼は人ではない。
まさかと打ち消し。
だがと疑い。
葛藤しながらアルトールはじっと旅人を見据えた。答えが見えはしまいかと、淡い期待を込めて。
「どうしました」
疲れましたかと旅人が問う。
「あんたは疲れないのか」
旅人は首を横に振った。
アルトールは軽く咳払いをして水袋を手にした。歌い続けというわけではないが、日常ほとんど喋らない人間がこれだけ声を出している。さすがに堪える。
水をひと口ふくんでゆっくり飲みこむ。
ふ、と。
答えが降りてきた。
「あんた、俺に会ってから一度も飲み食いしてないな」
そうでしたかと旅人が笑む。
瞳の緑が深みを増した。
「……長旅をしているふうなのに荷物のひとつもないのはどういうことだ」
旅人の笑みは消えない。
返事もない。
これは人ではない。アルトールは思う。とにかく生きて血の通った人間ではない。何かは知らないが、生者の間尺で測れるものではない。
そんな気がした。
旅人の唇が動いた。
「おやめになりますか」
旅人の姿が陽光に揺らぐ。
「いや……続けよう」
旅人は、少し悲しい顔をした。
アルトールは練習を再開した。