【舞曲王の墓所】
誰かが歌っている。
アルトールは足を止めた。街道から何日も離れた山中で歌を聞くとは思わなかった。数日ただ黙々と獣道をたどってきて、久々に訪れた小さな変化。
こめかみを伝う汗を拭いてあたりを見回した。
暑い。
陽差しは枝葉に遮られるのに、なお草いきれで息が詰まる。
アルトールは声の方向を確かめて歩きだす。思い出したように微風が起きて梢が鳴る。歌は消えた。立ち止まり、待った。
あたりの音が消えると歌声が戻った。
鳥が鳴いては待ち、獣の気配がしては待ち、ときには自分が枯れ枝を踏み折って立ち止まり、待つ。近づいているはずなのにいつまでも掴みきれない声である。
さらさらと涼しい音が聞こえてくる。
川があるのか。
水音は歌を消さない。
渓流の傍らに男が座っていた。色あせた金髪を首の後ろで束ね、野営に耐える丈夫そうなマントを身につけている。背中はだいぶくたびれたふうで、長旅暮らしを思わせた。だが声に疲れは感じられない。伸びやかに風に乗る。
歌が止んだ。
旅人が振り返る。
深い緑の瞳――
いつのまにか瞳の色が見えるほど近くにいる。アルトールが歩み寄ったせいだ。そうした意識はないのだが。
「お耳汚しをいたしました」
男の言葉がせせらぎに混じって聞こえた。
溶けるようなやわらかい音だった。
「あ、いや」
アルトールの声は喉の奥で低く掠れた。
「俺こそ黙って近寄ったりして……その、ぶしつけで申し訳ない」
旅人はひかえめに笑みを浮かべた。
アルトールは川に降りて水を飲んだ。冷たくて甘い。
「さっきの」
革袋の水を新鮮なものに取り替えながら口を開く。
「古い歌だったな」
「ええ」
とても古い歌です。旅人はそう言った。
旅人の声はアルトールの低く胸にこもる声とは対照的に、風に流れ広がっていく。
「あんたを雇いたい」
旅人はきょとんと目を見開いた。
「……はあ」
「吟遊詩人ではないのか」
「まあ、歌うたいですね」
「ではあんたでいいのだ」
旅人が曖昧に頷く。
「突然ですね……なぜ吟遊詩人をお雇いに?」
「この先にある遺跡に入りたい」
遺跡、旅人が繰り返す。
「舞曲王の墓所と呼ばれている。知っているか」
「ええ、まあ……」
史書は舞曲王について多くを語らない。今はない古い王国の、在位短い王――わずかな史料は彼を稀代の昏君と呼び、為人はただ音曲を愛したことのみを伝える。
得体の知れない王の、もっとも謎に満ちた遺産がこの「墓所」。
王城の奥には巨大な墓所があり、王家の者あるいは国に大きく貢献した者が安置される。本来ならば舞曲王その人もこの一室に眠るはずだった。
巷説によると、王はある日突然こう言い出したという――墓には入りたくない、自分が死んだら国境の湖に沈めてほしい。
その後のことは伝わっていない。王は幾年もたたずに病没した。
舞曲王の専用墓所は北西の山脈に造られた。山向こうに広がるのは深い森と荒れた平原であり、遠い昔からどの国にも属したことのない自由な土地だ。
「あの遺跡に入りたい」
アルトールは答えを待った。
旅人はしばらく川面を眺めていた。
夏の真昼、白い陽差しは波に弾かれしぶきをあげて、いっそう眩しい。
旅人の瞳の中でちらちらと光が揺れた。
「わかりました。参りましょう」
声が川の音に混じった。