【神々の沈黙】
神官は「神官」と呼ばれ、誰も名前を知らない。
その人々は褐色の肌をして、黒髪を長く伸ばし、湖のほとりに石の都市を築いて生きている。山々は荒れた大地も露わに長々と連なっている。
湖と麓の樹海が恵みの全て。
神々は遠く、だが神殿は湖の中央にその威容を誇り、祈りを乗せた舟が糧を得て帰る人々の舟と行き違う。水は澄んで冷たい。だが底は見えない。
誰がどうやって祈りの場を造りあげたのか、誰も知らない。
神官は神殿に住んでいる。時には岸へ渡り、人々の中を歩む。差し出されたものを食しもする。語らい、笑い、さしのべられた手に触れ、跪き垂れた頭に祝福を授ける。
しかし神官がどうやって湖を渡るのか、誰も知らない。
閉ざされた世界には閉ざされた平安がある。ゆっくりと、確実に、ひそやかに衰えていく血。不自由などではなく、誰も気に留めない。
滅びゆく種族なのだと知っているだけ。
ただ祈り、静かに生きる。神の声は決して聞こえてこないのだが。応えがほしいわけではないから、届いているかと煩うつもりはないから。祈りのために祈り続けるから。
神官は神々を代弁せず、祈りを受け取るばかり。
戦の声がする。
樹海を越えて人の群が押し寄せる。荒々しい血潮に満たされた人々は強く貪欲で。
消えゆく者らに抗う術もなく。
枯れた大地は雨の代わりに民の血を飲み干して潤う。白い石組みは夕焼けよりも鮮やかに赤。斜陽の消えた空に星が浮かび、地上は篝火で溢れ。
香油の甘い香りが血と炎のにおいをいっそうひきたて。
その頃、神官は冷たい水に褐色の裸身を浸した。
湖は空のように澄んで、青白い月光をはじき、闇とともに星空を映している。
静かだ。
ひとの嘆きなど知らぬげに、水はただ澄み冷たい。
神官はかすかな水音と波を引き連れて湖を渡る。神殿は中央に影のまま佇んでいる。その足下で神官は水底を目指す。
神官の役割は民の祈りを守ること。
神殿には秘密の部屋がある。けっして上から入ることはできず、ただひとつ、水底にのみ入り口を持つ。
神々の座像は何処からか入り込む月光にほの青く照らされている。
静かだ。
ひとの嘆きなど知らぬげに、神々はただ黙し佇む。
神官は唯一身につけた首飾りを外し、中央に座す聖なるジャガーの、空洞の左目に石をはめ込んだ。緑みを帯びた白い石が月の光を弾いてほの青く輝いた。
大地のどこか奥深い場所で低い音がした。
命は守られなくとも、祈りは守られねばならない。
神官は岸辺に立ち、濡れた裸身を夜気にさらして湖を見下ろしている。かすかに風が起こり、長い髪から落ちる滴を吹き散らした。
神殿の巨大な影は民の祈りとともに水底に沈み、今はその波も失せ。
空も海も神々も、ただ沈黙するばかり。
いつかも覚えていないぐらい昔の夢。なに考えてたんだ、当時の自分。なんか中南米系の話でも読んだんでしょうかね。
この夢はもっと長かったです。前も後もあったんですけど、きちんと全部書こうとすると、伝記っていうか、とにかく長くなってしまうんですよね。人間ひとりの一生ぶんの話だから。まあ短命なぶん、ふつうの小説よりは短いんでしょうけど。
神官さんは、このあとすぐに死んでしまいました。
実は以前、大学のサークル会誌でこれを元ネタにした話を書いたことがあります。3部構成の話のうちひとつ。アレンジしてますけどね。