其の参
この頁では、遠野における菊池姓について歴史的観点などから考察したします。

宮森舘の菊池氏
  (旧上閉伊郡宮守村
       遠野市宮守町)
中世の遠野郷領主、阿曽沼氏下向以前より菊池氏を名乗る一族有り、すなわちその一族とは宮守地方を領有していた後の宮森氏ではなかったか?「宮森主計祐澄」・・・しかし、宮森氏は藤原秀郷流の末裔とあり、後年遠野地方に入る菊池一族とは別流ではないか?(阿曽沼氏との婚姻により阿曽沼一族となり、系図を秀郷流に書き換えた形跡があるとか・・・?)
俗説・・・・肥後の菊池氏・菊池武敏が1340年頃、奥州下向の際、宮森舘に滞在していたとも、築城したともいわれる説がある

新谷氏(遠野新谷菊池系図)
道隆流藤原氏の系譜を自称する一族
大職冠鎌足卿の後胤、応仁の乱後、九州より奥州に下向、江刺に仕執権職となり、九州菊池家の分かれ也。
菊池左近、近代に至りて其時の主人に諌言すること有て左近忽討る、依之菊池一族、江刺家を退く、多く南部へ奉仕去々
遠野の菊池姓を語るうえで新谷氏の存在は避けては通れぬ必須です。系図には最初の部分に肥後の名だたる菊池一族の武将の名が記してあるそうですが、どれの系図にも登場しない貞頼なる人物が記され、この時、足利方に攻められ滅亡、貞頼の末子が落ち延び貞房と名乗り、その末裔が江刺氏に仕える、ここからはほぼ史実に照らした系図との見解で菊池左近(右京)、後に子孫達は遠野阿曽沼氏に仕え、阿曽沼没落後は南部氏、遠野南部氏配下となり、小友金山、伊達領との境番人などの役人となり新谷氏を名乗る。

以上が、歴史的な資料や俗説、言い伝えから菊池氏遠野流入について抜粋したものですが、やはり九州肥後の菊池氏関連が一番印象に残るものだとは十分考えられますが、しかし、南朝の忠臣、菊池一族も含み朝廷に忠義心を以って奉職した家、一族は明治時代の天皇中心の教育によるもので、当時の一般庶民に菊池氏の偉業や活躍が知られていたのか、ましてや中世における九州での菊池一族が遠く離れた奥州まで落ちてくる理由があったのか?と考えるのと、ここまで氾濫する遠野の菊池姓の広がりをみますと他に何か理由があるのではと考えられます。
歴史的なものと便乗する民俗学的な何かがあったのではと思われます、例えば九州肥後の菊池一族の栄枯盛衰を信仰とともに語りながら伝える者達がいたかもしれません、それは何かはまだ調査中であり、その都度、こちらにてアップしたいと思います。
八戸王朝と菊池氏
菊池左近とあるが右近との記述あり
遠野地域の菊池氏一族といわれる武家に関しては、遠野阿曽沼氏のコンテンツ「舘と舘主、その光と影」に詳しく掲載しております。
「松崎町の舘跡・八幡舘の頁」「平清水氏関連」「宮守菊池氏と宮守舘」「菊池一族の舘・臼舘、板沢舘、刃金舘」

阿曽沼旧臣菊池氏一覧