この頁では、歴史的にみる菊池氏の奥州下向に関する伝承等を中心に紹介、考察いたします。
その弐

九州肥後・菊池一族の奥州下向
東日本、特に東北地方の菊池姓の根源は、南北朝時代、九州の南朝方として武威をふるった肥後の名族、菊池氏の栄枯盛衰が関わっているといわれております。
南北朝期の終結、つまり表面的には南北統一が和合という形で終わりを告げるのだか、結果的には北朝側有利の展開であり、九州南朝側で活躍した菊池氏は戦いに敗れた形で一族四散し全国各地に落ちていったという俗説からきております。
しかし、実際は南北朝統一後においても肥後における菊池氏は健在であり、むしろ応仁の乱後、戦国初期に周囲の勢力により侵食され没落する時代にての奥州下向が考えられますが・・・下記では奥州下向による伝承等をいくつか列記いたします。
九州肥後の名族・菊池氏
藤原北家流と一般的にいわれており、肥後国菊池郡、太宰少監・藤原則隆から興っている。最近の見解では太宰府官・藤原蔵規の子、則隆であることが明らかにされている。
菊池氏が歴史の舞台に登場するのは、平安末期、菊池隆直が平家に対し挙兵、しかし平家軍に敗れ、後の源平合戦では平家方として戦い、一族のほとんどは壇ノ浦で平家と命運をともにしたといわれている。
鎌倉期、承久の変にて後鳥羽上皇側として鎌倉方と戦い敗戦、九州史の舞台から一時消え去る、しかし、蒙古襲来に菊池武房が一族を引き連れ奮戦、名をあげている。
その後、鎌倉幕府滅亡〜南北朝時代、菊池武時・武重・武士・武光と九州史に名を刻む武将を輩出し、九州南朝方の忠臣として、北朝方を各地で撃破、一時本拠である菊池本城を失うも奪還、時に菊池武光は大宰府をも占領する働きをみせ、その武威はほぼ九州全土に鳴り響き、九州南朝の最盛期を作り上げた。
しかし、武光の子、菊池武政のとき、九州探題・今川貞世に圧迫され、武政の子、菊池武朝は本拠、菊池城を追われ八代に退いたが南北朝統一により菊池城へ復帰、肥後国司、守護としての地位は保っていたとされる。
室町時代、肥後国守護職を世襲する菊池氏であったが、家臣同志の争いや隣接他家の干渉などもあり、徐々に菊池氏は衰退の色をみせはじめる、大友氏・阿蘇氏・相良氏といった近隣諸氏による家督争い介入が大きな要因となり、遂に永正年間、菊池政隆時代に大友氏と結んだ家臣の反乱で菊池氏の命脈は絶たれてしまい、大友氏によって併合され、大友義鑑の弟、菊池義武が菊池氏を継ぎ完全に菊池氏は大友氏の傘下に組み込まれ、菊池氏の血脈は断絶してしまう、一族の多くは、各地へ分散し、このことが菊池氏の奥州下向の要因ともいわれている。
後亀山帝の密勅による奥州下向
菊池氏十四代・菊池武士の子、従五位下菊池武頼、武頼の子、従五位下菊池頼来の他、菊池一族、郎党が奥州下向と伝えられている。
これは、南北朝統一により1392年、南朝の後亀山天皇が京都への帰還にあたり、南朝警備の菊池諸氏に(12名とも127名とも?)解散を命じ、僧形に変えさせ奥州に落去せしめられたとある。
菊池武敏奥州下向
菊池武時の子、武敏は1342年、後村上帝の聖旨を奉じて大塔宮護良親王の子、八幡丸・良尹王をともない北畠顕家の子・北畠顕成とともに熊野千里浜を出帆し北上川河口・・・石巻に上陸したとある。
江刺の菊池氏
米良小川系図によると藤原正則流に二子有り、その他小松中将藤原実方流に三流有、この五流が混合し熊野水軍となり、南朝吉野にて仕えていた菊池氏を船にて収容し、奥州石巻に至り上陸。
さらに北上川をさかのぼり江刺郡(岩手県江刺市)に達したといわれている。
奥州の菊池氏流入については福島県の安達郡と岩手県江刺市が中心で、ここから東北各地に分布したとの見方もある。
なお、江刺への下向は二度有り、1400年前後、そして1500年頃であるといわれている。
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その参

現存する岩手県関連での主な菊池氏系図は、和賀立花系図・江刺郡角懸系図等がある。(下記系図)
どちらの系図も若干の違いは認められるも、ほぼ同じ系統であるとの見解がされている。