松虫・鈴虫伝説
其の弐
松虫・鈴虫伝説・・其の弐・・・・・この頁では、京都で有名な松虫・鈴虫物語と関連性があると思われる我家の伝説、何故京都から遠方の地、遠野に伝わっているのか?古文書の史跡も現存していない中、推論を中心に考証いたします。
なお、この伝説についての解明は、至難の業であり永遠に解き明かされない可能性が大ですが少しずつ時間をかけて取り組んで参りたいと思います。
松虫・鈴虫物語の成立と史実
一般的に広く知られ語られている松虫・鈴虫物語は、江戸末期発行の「安楽寺略縁起」・明治32年刊行されたという「住蓮山安楽寺鹿ヶ谷因縁談」等がある。
上記の内容には物語でのヒロインとして松虫・鈴虫が登場しているが、史実としての建永の法難を紹介する文献には松虫・鈴虫の名は何処にもないとのこと。
史実としての建永の法難という大事件の直接的な原因とされる官女の出家にもかかわらず、二人の女性について記述がどの文献にも書かれていないのは何故か?
京都左京区鹿ヶ谷・松虫・鈴虫ゆかりの寺・「住蓮山安楽寺」伊藤住職様の研究論文によると両姫が登場する最古の文献は大分県浄土真宗西本願寺派専想寺に所蔵されている談義本「松虫鈴虫物語」で室町時代末期の写本との見解がされている。
建永の法難といわれる歴史的事件に関し、後鳥羽上皇に仕える官女等が法然上人一派による「六時礼讃」に魅了され御所を抜け出す女人もいたといわれる事実、実際に出家に及んだ官女もあったと記述する文献も存在しており、後鳥羽上皇に仕える官女の出家が引金となり建永の法難が勃発したのは間違いないとの見解であり、松虫・鈴虫のモデルとなった女性が実際に存在し、室町期、浄土真宗で説く女人往生にふさわしい出来事であり、さらに松虫・鈴虫という美しい響きの名として物語に命を吹き込んだものではないか・・・・とある。
松虫鈴虫物語

我家の伝説考証
前頁でも記していますが、我家に伝わる内容は、「古にふたりの尼様が住んでおり、尼屋敷があった」そして「松虫・鈴虫という宮中に関係する高貴な美しい方々であったという」のみで古文書、史跡(墓)は類は何一つない。
このような状態であるので、解明どころではないのですが、京都安楽寺様との交流、郷土史に明るい諸氏先輩方の見解等、参考文献等も徐々に目に止まる段階となり、調査する方向性が一応定まったのみであります。
ここでは、推論中心の内容ですが可能性が高いもの、何点か紹介いたします。
中世遠野領主阿曽沼氏と愛宕神社
鎌倉初期、遠野に下向した阿曽沼氏(代官・宇夫方氏)は、最初に落ち着いた先、現松崎町下駒木に仮館を築いた際に、館の東方に遠野で一番古いといわれる愛宕神社を建立したと伝えられている。
この愛宕神社があった場所に古の尼屋敷があったといわれており、後に宮洞と呼ばれる地になるのですが、明治時代、神社というよりお堂のあった形跡があり、御神体の入った祠は一応原型をとどめ立ち木に立てかけられた状態であり、周囲は木立に囲まれていたがある範囲だけは以前に整地された形跡のあったとのこと。
明治末に福泉寺建設が始まった頃は、花巻在住の方の持山だったそうですが、祠のすぐ下方に家があった我家にて御祭していたようです。
福泉寺が開山となってからは福泉寺所有となり祠は本堂に納め、我家と福泉寺にて毎年祭礼を執り行ない、昭和40年代に福泉寺によりお堂が建設されております。
中世の領主、阿曽沼氏は本領が下野国にあり、親鸞聖人が建永の法難で流罪となった地、越後にも一部所領があり、また後に関東各地に親鸞聖人の足跡があったとされ、またはその弟子達の活動も関東にあったことを想像しますと、阿曽沼氏と浄土真宗との接点も考えられます、前段の安楽寺伊藤住職様の見解から仮定するならば、松虫・鈴虫両姫のモデルとされた女性が何かの縁で下野国に入り、その後遠野へ逃された可能性も考えられます、室町期以降に遠野方面を訪れた真宗の僧により「それは松虫・鈴虫という高貴な方だった」と教えられた可能性も否定はできません。
九州肥後菊池一族の奥州下向
遠野にやたらと多い姓・菊池姓。伝承によると肥後の名族菊池氏の一族が南北朝動乱期と応仁の乱後に奥州に移ってきたとされています。
浄土真宗による女人往生の説く教えは西日本に多く広まり、特に九州に多いといわれています。肥後の菊池郡にも布教されたと仮定するなら、奥州へ落ちてきた菊池一族関係者にもたらされたことも可能性大で、遠野地方に、さらに入ってきた菊池氏により以前からあった尼屋敷伝説に松虫・鈴虫の物語を加えたのではないのか・・・・ただし菊池姓流入に関しては諸説有り
宮洞と早池峰信仰
早池峰山は古くより霊山としての信仰の場であり、全国各地から修験者・行者などが多く訪れたことは史実としても明らかです。
我家は遠野の町場と早池峰山との街道の道沿いにあったのと、裏山の愛宕堂があった場所が一種の聖域的な不思議な空間を醸し出していたとのことで、一夜の宿或いは裏山に野宿する修験者等がけっこう居たと伝えられております。
そんな環境のなか、古に伝わる尼屋敷伝説に鎌倉期京都の事件でのヒロイン、松虫・鈴虫物語を家人や近隣に語った可能性もなきにしもあらず・・・
以上が大胆な推論ですが、あくまでも遠野すなわち宮洞の地に「松虫・鈴虫両姫が居た、或いはモデルとなった女性が住んでいた・・」を前提に考えた場合のものです。

ご意見やこの伝説に興味がある方、情報若しくは他に考えられる推論などありましたらご一報ください。私は古に尼屋敷があり、松虫・鈴虫両姫が遠野へ来たと信じております。


つづく
架空の名、松虫・鈴虫
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