松虫・鈴虫伝説
我家に伝わる伝説「松虫・鈴虫伝説」についての紹介と、何故東北の片田舎に京都での出来事のヒロインの名が残されているのか?永遠のテーマである。
宮 洞
<我家の屋号の由来>
みやほら
我家の屋号は、宮洞といいます。
古くより宮洞とよばれた場所で現福泉寺本堂のある場所一帯を指したものなようですが、この場所近くに我先祖が家を建てて住んだことから、以来宮洞の屋号としたとのこと。
宮洞という名の由来については、鎌倉時代初期、阿曽沼氏(代官、宇夫方氏)が遠野郷下向の際、最初に落ち着いた駒木(宮洞のある部落)の東方の守りとして愛宕神社を建立し、その祠があったのと、宮中に関係すると伝えられている二人の尼様が住んでいた屋敷があったことから宮洞と呼ばれるようになったと伝えられています。
福泉寺本堂脇に位置する愛宕堂
我家で別当を務めている
我家の伝説
我家に伝えられている伝説は、その昔、松虫・鈴虫(我家では鈴虫・松虫)といわれる尼様が古に住まいしていたというのみで、詳細は伝えられていない、また古文書、史跡の類もなく、口伝えによるものです。
明治〜昭和初め在住の我先祖(五代前)菊池清作により古の尼様は松虫・鈴虫という名であることがはじめて表に出、福泉寺初代及び二代住職が色々と調べたということですが、これは笑話と後に伝わっていますが、松虫・鈴虫を本気で虫(昆虫)だと思っていたのが本音だったそうです。
二代住職、宥然師がふと親鸞聖人の伝記を読んでいた際に、鎌倉初期の京都での建永の法難での「松虫姫・鈴虫姫」を偶然見つけたことにより、遠野に尼となった松虫・鈴虫姫が来たのではないか?ということになっています。
建永の法難
鎌倉初期、京都での事件と松虫・鈴虫物語
鎌倉時代初期、法然上人の弟子で住蓮房と安楽房の二僧は、鹿ヶ谷にて庵をむすび広く人々に念仏を広めていた。
たまたま後鳥羽上皇が寵愛していた官女、松虫・鈴虫両姫が上皇が熊野参詣の留守の折、出家してしまう事件がおこる。
激怒した上皇は法然上人一派の弾圧に乗り出し(建永二年・1207年)法然上人は土佐へ親鸞聖人は越後へ流罪、住蓮と安楽は斬刑に処せられる。
松虫・鈴虫両姫は悲しみのあまり自害して果ててしまう・・・。
京都安楽寺門前の立札クリックすると拡大
以上が松虫・鈴虫物語の概要である。
松虫・鈴虫物語では、両姫は自害という結末ですが、両姫は出家後、紀伊の粉河寺に身を隠していたが住蓮・安楽のことが気になり乞食姿で京を訪れる、その日は二僧が処刑された翌日で、処刑されたのは上皇の許しなく出家したことが原因と思い、二僧を慕って一日も早く二僧の元へ行きお詫びしたい一念で鹿ヶ谷で自害したということです。
ところが、もうひとつの説では、両姫は出家後、安住の地を探していたといい、法然上人の弟子で後白河法皇の姫、如念尼公(親子内親王)に相談し生口島の光明坊(現広島県)を選び、光明坊で余生を過ごしたと伝えられている。
松虫姫・・・元仁元年(1224)11月18日 36歳にて往生
鈴虫姫・・・嘉貞元年(1235)4月29日  45歳にて往生
次頁では何故遠野(我家)に伝説があるのかを考証

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