
| 第一次奪還戦 平田の戦いと伊達勢釜石侵攻 最上に在陣の南部勢に和賀、稗貫の旧臣達蜂起の報がもたらされるや、南部利直は直ちに徳川家康に賊徒鎮圧の許可を取り付け、国許へ帰還する。しかし阿曽沼勢は、最上にしばらく留め置かれたといわれ、会津情勢の緊張が緩んだ時点にて帰還が許され、遠野への帰路についた。 江刺領との境、五輪峠にさしかかった時、遠野から家臣、西風舘大学(宇夫方広久)により遠野での急を知らせる報を受け、さらに峠頂上付近に南部軍と共に謀反軍が伏兵を配して待ち構えている報も伝わると広長は、無傷の遠征軍を以って一気に敵陣を破り、遠野奪還をと意気込んだとされますが、広長に従っていた将兵の多くは、遠野に家族を残したままであり、しかも主要武将に至っては家族が人質となっている現実にて、遠征軍の士気は上がらず、逆に夜陰にまぎれて脱陣する者が続出したとされ、広長も流石に進撃を断念し、「他日必ず伊達勢を借り受け、遠野へ乗り込む所存であるので、その際は必ず我へ馳せ参じるように・・」と固く約束させて、直ちに部隊解散して、将兵の遠野帰還を許し、広長は松崎監物、興光寺靱負(こうこうじゆきいえ)、西風舘大学(ならいだてだいがく)等4〜5人の従者のみで別路から気仙郡世田米に落ちていった。一方、遠野へ帰った将兵は上野広吉に説得され、その旗下に組み込まれたとされる。時は慶長5年晩秋の頃といわれる。 世田米へ亡命した広長一行は、広長の舅である伊達家家臣、世田米修理に庇護され、世田米修理を通じて伊達政宗に遠野奪還のための兵員、武器、食糧等の援助を要請すると、政宗はこれらの援助を約し直ちに浜田喜六(二本松浪人)、笹木丹後(大崎浪人)を大将に葛西氏、大崎氏旧臣にての義勇兵を引率させて広長のもとに派遣したとされる。そして広長は遠野奪還にあかつきには、遠野侍として取り立てると激励し、その侵攻の準備に入ったと伝えられている。 慶長6年(1601)3月、準備万端、広長率いる気仙勢は、伊達政宗指示により、世田米から三陸海岸の唐丹、小白浜(現釜石市唐丹町)から平田坂を越え、釜石に入ろうと進軍したが、この作戦は伊達軍と共の共同作戦であり、釜石北方の阿曽沼支族、大槌氏とも合流を果すための釜石方面への進撃とされています。 「阿曽沼興廃記」による口語訳による略文にて紹介 ところが広長の遠野侵攻が近いとみた遠野方は、伊達、広長の共同作戦と知ると、これに先制攻撃を仕掛けて各個撃破を狙っていち早く釜石へ進軍、大将の鱒沢広勝は平田坂にて伊達、広長の気仙勢を迎撃、ところがこの鱒沢広勝率いる遠野勢の進撃を知ると気仙勢は各所に伏兵を配して、策略を用いて遠野勢を油断させ、その隙に乗じて四方より遠野勢を囲んで弓、鉄砲を雨霰の如く放つと遠野勢は混乱に陥り、兵の多くは逃亡するに至る、大将の鱒沢左馬之助(広勝)は、なんとか虎口を脱したが、追撃する気仙勢に敵に背をみせて逃げるとは卑怯と罵られ、取って返すと馬上の伊達勢大将(気仙勢)の浜田喜六が駆け寄り、槍を交えると、鱒沢氏の郎党、上台平兵衛兄弟が浜田喜六を馬より突き落とし、首を取ったとされ、その間に鱒沢左馬之助は山道へ逃げ込んだが、その疲労は極限に達し馬もろ共に深沢へ転げ落ちてしまったという・・・鱒沢左馬之助は、なんとか木の根、笹竹につかまり、斜面を登ってきたが、そこを気仙勢に見つかり鉄砲にて狙撃されて討ち死に、さらに首を打たれてしまい、遠野勢は敗北・・・ また、別伝承によると・・・ 合戦の概要は上記内容のとおりではあるが、気仙勢は兵力は大勢だったが、助太刀という意味での立場だったので、戦意が低く戦いが始まると先を争って逃げたが、大将の浜田喜六だけはこの劣勢を跳ね返そうと孤軍奮闘、しかし遠野方の上台兄弟に討ち取られると気仙勢は益々混乱して敗走に至った。鱒沢左馬之助は、勝戦に乗じて追撃に移るも深追いしすぎて逆に気仙勢に包囲されるも、なんとか包囲を破って平田坂へ退却するが誤って馬もろ共崖下に転落、その崖を這い上がってくるところを鉄砲で撃たれて討ち死にしたと伝えられている。 双方の大将が戦死ということで両軍は引き分け、それぞれの国許へ兵を引き揚げたとなっている。 一方、7月、伊達正規軍というべき、古田九兵衛、中島大蔵の伊達勢はこの戦いに併せて海路にて釜石に侵入して狐崎城を包囲、平田坂にて気仙勢が攻めあぐねて撤退した事実を知らないまま狐崎城を攻め、これを落城させたとされている。 慶長7年春、遠野から南部、遠野連合軍は狐崎城奪還の目的で三陸方面に出兵したが、中島大蔵等伊達勢は、南部勢攻撃以前に伊達領内に撤退したとされる。 この第一回遠野奪還戦に関しては、別説も存在し、後の研究では以下の事柄が指摘されている。 まず伊達政宗の阿曽沼広長への援助は、関ケ原の戦いにての混乱が残る時勢にて北進の野望があったこと、阿曽沼広長の遠野奪還に伴い、遠野をその勢力下に取り込みたいとの野心が見え隠れしている。これに先立ち、まずは三陸海岸方面も占領下に置き、その余勢をかって遠野へ侵攻ととれる作戦でもあったと思われる。 とりあえず釜石方面の確保を狙うべく、没落諸氏を気仙勢に加勢させ、その一方では岩出山や磐井の旗本等の伊達軍約3百余りを海上と陸路に送って釜石狐崎城を攻めている。 この伊達政宗の釜石侵攻の理由付けは、葛西氏旧臣、鹿折信濃、阿曽沼氏家臣で狐崎城主、新谷肥後(阿曽沼氏家臣、平清水駿河の弟、或いは従兄弟とされ遠野では新谷肥前といわれる)が一揆を起して立てこもったとの内容にて、南境の伊達領にもその乱が波及するのを未然に防いだ・・という内容を徳川家への言訳に考えていたとされる・・(貞山公尊伝・巻21・慶長6年の項)に記述有とされている。 南部領となった地での一揆を他領の伊達家が遠征してきて鎮圧というのも言訳にならない内容であり明らかに領土拡張の野心ととれる事柄と思われる。 さらに一揆と称する釜石勢を散々に打ち破ったが、南部領内での戦いであったので政宗もこの弁明をいかにするか苦心したとされるが、上記内容の理由を徳川家に伝えるも徳川家康は、一揆鎮圧の単なる事件と取り扱ったとされ、政宗の野望は叶う事はなかった。 平田坂の戦いの真相 この平田坂の戦いは、地元において戦いの仔細について伝承が残されている内容が「遠野市史1」に記載されている。また近世における遠野を含む旧上閉伊地域(宮守村・遠野市・釜石市・大槌町)に住む人達からすれば平田とは、すなわち現在の釜石市平田地区を想像する事柄が圧倒的に多いものと思われます。さらに伊達軍が釜石へ侵攻ととれる史料からしても伊達勢と気仙勢が共に海路、陸路にて釜石へ侵攻ととれる内容でもありますが、最近の遠野郷土史家の調査研究、さらに住田町における郷土史関連の記述をみると、平田の戦いは釜石ではなく住田町上有住地区の平田城近辺では・・との見解が示されそれを裏付ける地元の伝承なども伝えられている。 また、伊達政宗は、阿曽沼広長へ援助を行いつつも、自らの主導で別隊の編成にて釜石制圧を画策していたともとれる内容が前記の事柄から伺われ、釜石方面の作戦は伊達勢単独の行動とも推測され何よりも伊達本隊ともとれる部隊は広長勢と合流は果されてないことが平田坂の戦いの概要から受け取れる。 鱒沢氏を調査研究する郷土史家の見解及び住田町史2では、遠野侵攻を企てる広長の動きを察知した鱒沢左馬之助は、準備がまだ不完全な広長に対して、先制攻撃するべく、来内口から蕨峠を越えて気仙郡、世田米に居る阿曽沼広長を叩く目的で気仙郡へ進撃。来内から蕨峠越えにての気仙入りは当時も現在も最も近距離である。しかし、鱒沢左馬之助率いる遠野勢が攻め入った時には、広長軍も一応の準備は完了しており、攻め寄せた遠野勢を迎撃したとされ、気仙郡上有住平田城(ひらた)付近で両軍は激突、地元伝承によると攻め寄せた南部勢との熾烈が戦いが上有住の平田砦近辺で繰り広げられ、一帯は死人で埋まったと伝えられている。鱒沢、浜田といった両軍の大将格が討ち死にしたのは事実とみられ、戦いは引き分けとなって遠野勢は遠野へ撤退、広長率いる気仙勢も打撃をうけて遠野奪還の兵を繰り出せないほど消耗したとの見解です。 平田(へいた)の戦いは、実は平田(ひらた)の戦いだったというのが、最近の研究、調査による見解との内容で信憑性は高いものと思われます。 「阿曽沼興廃記」には上有住と平田の境・・・との記述から釜石平田となったと思われますが、伊達政宗主導の作戦とはいえ、現住田から釜石の唐丹へ山越えにて出、さらに北上して釜石から西進して仙人峠を越えての遠野攻めは、考えがたいとの見方がされております。 遠野合戦・・・平田の戦い(住田町関連) 気仙勢(広長軍)陣容 総大将・阿曽沼広長 旗頭・世田米修理広久 大将格(部隊長)・浜田喜六(浜田広綱弟、上有住城主) 笹木丹後(竹駒城主) 紺野美作(下有住外舘城主) 及川土佐(猪川城主) 只野民部(越喜来城主) 気仙勢は、各部隊長手兵の他、旧葛西旧臣が加わり、世田米柿内沢から只越沢に出て、下有住の兵と合流し、十文字にて兵馬を整えた後、周囲に伏兵を配し、少人数の部隊にて遠野勢を迎撃し、撤退をしながら、遠野勢をあしらい、誘い込みに成功、遠野勢を包囲すると鉄砲、弓を散々撃ちかけ損害を与えた・・・・後の展開は上記のとおり・・・。 後に伝わる地元の伝承によると、平田城近くで浜田喜六が討死に、平沢、新切、十文字の集落はほとんどが焼失し、住民にも多数の犠牲者が出て、10年に一度の大飢饉にあうとも、一度の戦い日にあうな・・・という教訓が残されていたそうです・・・?。 |
| 第二次奪還戦 凄惨赤羽根峠の戦い 慶長6年春の平田の戦いにて、鱒沢左馬之助率いる遠野勢が阿曽沼広長の気仙勢に先んじて気仙に攻め込むといった作戦で双方大将格が討ち死にという痛み分けとなり、阿曽沼広長は再度遠野奪還の準備に入らなければならなかった。しかし、遠野方の首領格の鱒沢左馬之助を討ったということで、気仙勢は大いに気勢が上がり、さらに気仙郡旗頭の千葉安房守が参陣、早くもこの年の秋には侵攻準備が整い、今度は直接、赤羽根峠越えにて遠野奪還の軍を率いて笹木丹後、横田主計を大将に赤羽根峠へ出陣する。 遠野方でも広長が赤羽根峠口から侵攻の構えを察知するや、遠野の盟主となった上野広吉は赤羽根峠のある上郷村に所領を持つ平倉新兵衛、板沢平蔵を配下に手兵を率いて赤羽根峠へ布陣して迎撃態勢をとった。 両軍が対陣するや、広長勢は「殿のお帰りぞ、お迎え申せ、であえ・・」と口々に叫びながら寄せてきたとされています。これは五輪峠にて大半の兵を遠野へ帰し自らは気仙の世田米に落ちていくときに、部隊解散した兵に遠野奪還戦の折は、我に味方せよ・・と約したためで、それを期待しての呼びかけであった。ところが遠野諸士誰一人としてこれに応じる者がなく、反対に広長軍の攻撃を果敢にも防ぐ戦いをみせたので、気仙勢は落胆したと伝えられている。 さらにこの戦いは、かつて見知った者同士も多数いたため、かえって互いの憎悪となり前後に比を見ないほどの熾烈な戦いとなった。この熾烈な戦いを垣間見た気仙勢、すなわち伊達家に編成された気仙応援部隊は、遠野勢必死の戦いに戦意消失し、そのほとんどは逃げ出す有様で、広長に付き従い共に遠野へ帰還を夢見た諸氏のみが懸命に戦うも、松崎監物、興光寺靱負が乱戦の中、討死に、遠野方でも平倉新兵衛が討たれ、上野広吉の娘婿で大迫、或いは土沢(和賀郡東和町)の土豪、十二鏑弾正が頭に銃弾が命中して戦死、板沢平蔵も深手を負って後日死亡という、討死した者が多数続出という激しさであった。広長の忠臣というべき、松崎、興光寺の侍大将クラスが討死にしたのと、気仙勢の大半が気仙方面に逃亡するに至ると広長もこれ以上の戦い続行は不可能となり、自らも気仙へと退却を余儀なくされ、この赤羽根峠の戦いは遠野方の勝利となった。 戦いは凄惨を極め、特に自分に味方すると思っていたかつての家臣達のほとんどが自分に鉾を向けたというショックは広長には相当堪えたものであったと伝えられている。さらに以前は共に阿曽沼主家に仕えた同僚同士や縁戚となった者も居たと推測され、このことがかえって互いに恥を知り、名を惜しんだということもあり、そのことがさらに激しい憎しみとなったとも推測される。 また気仙勢は、先の戦いで首領の鱒沢左馬之助を討ち、さらに遠野方の侍も広長に馳せ参じ、戦いらしい戦いもなく、簡単に遠野入りが実現できるといった安易な考えだったのが、予想を覆す激しい戦いとなると無駄に命を落としたり怪我を負うということに対して単なる助太刀との意識が芽生えて敗走するといった行為に及んだと思われます。 松崎監物・興光寺靱負等はこれら気仙勢が逃げ出したため踏みとどまって討死にしたと推測される。 |
| 第三次奪還戦 吹雪の中の樺坂峠 阿曽沼広長は、予想に反して赤羽根峠の戦いで退却を余儀なくされたが、まだまだ遠野奪還の夢は捨てずにいた。またわざわざ伊達領内からかき集められた浪人部隊を預かる笹木丹後は、おめおめと伊達政宗に合わす顔がないと、広長共々、その年の11月、慶長6年(1601)11月、年取りは遠野で・・と互いに励ましあって、三度目の遠野奪還部隊を興します。 今度は世田米と境を接する小友を抜き、一気に鱒沢氏の所領、鱒沢に出て、それから遠野へ攻めると作戦だっとされている。 一方、この情報を知った遠野方、ことに鱒沢左馬之助を失った鱒沢氏の後継者、鱒沢忠右衛門は大いに驚き、早速一族一門を糾合して防備を固めるとともに、花巻に駐留する南部勢へ援軍を求める使者を発したとされ、この援軍要請に南部利直は、北十左衛門、桜庭安房、赤前四郎兵衛を大将にすぐさま鱒沢へ向けて出陣した。 阿曽沼広長率いる気仙勢は、予定通り世田米を出陣、小友に入る樺坂峠にさしかかったが小友に所領を持つ平清水駿河(平右衛門)が自慢の三尺余りの山木といわれる大太刀を振りかざして真っ向から討ってでると気仙勢の中に割って入って人馬もろ共なで斬りにする凄まじさで、気仙勢は恐れおののき平清水の周囲から皆逃げ散るといった強さであったという。さらに寒気が強まって吹雪模様となり、しかもその吹雪は気仙勢の正面に吹き付けるもので、遠野と比べると温暖な気仙地方や伊達領の兵は、この寒さに意気消沈してしまい、あろうことか遠野方に使者を送って明日、晴間を待ってあらためて合戦に及びたいと休戦を申し込んだとされている。平清水が休戦の申し出に返答をしない間に気仙勢は周囲の林の中に入って焚火等をしながら暖をとっていたが、遠野方は気仙勢の弱点が寒さと気付くと、焚火の炎を目印に矢を散々射かけ、さらに遠野勢が討ってでると一気に総崩れとなって先を争って一人残らず逃げ去ったと伝えられている。 伊達勢の大将、笹木丹後は、重ねての敗北に面目を失い、行方知れずとなったといわれ、広長に最後まで付き従った西風舘大学は、戦線離脱して土沢(現東和町)の安表に隠とんしたといわれている。 阿曽沼広長は、裏で後援した伊達政宗の再三にわたる援助にもかかわらず遂に遠野奪還は失敗に終わり名実共に遠野領主の地位を失い、その後は伊達家に寄食したと伝えられている。 この最後の戦いの進撃ルート、小友境からの侵攻は、鱒沢左馬之助を失い、さらに平田の戦いに従った兵の主力は鱒沢氏配下だったので、鱒沢家の武力が著しく落ちていただろうとの推測と、小友南部分一帯を領していた平清水駿河の父、平右衛門禅門は息子である平右衛門駿河が鱒沢、上野氏に加担して阿曽沼主家に叛いたことに憤慨して、厳しくその非道を責め、さらに他の子供達を引き連れて謹慎し、そのことで平清水駿河も心を痛め後悔しているとの風説を聞き及び、小友方面からの侵攻が比較的簡単との見方がされていたというものである。 前回の赤羽根合戦後、それほど日数も経たないうちの侵攻作戦については、赤羽根峠の戦いで敗れたとはいえ、ほとんどの気仙勢は無傷のまま撤退したため、戦力がある程度温存されていた点、さらに秋の収穫も終わり兵糧等の備えも充実していた、気仙側浪人衆を預かっている笹木丹後も早期のうちに結果を出したかったことと、広長も遠野情勢からして好機到来と判断したためと思われます。 また鱒沢氏からの要請を受けた花巻城進駐の南部軍約3百は、直ちに花巻を発進鱒沢舘に至ったといわれ、阿曽沼興廃記には、戦いには間に合わなかった・・と記されている。また「南部史要」等の南部氏関連書籍には遠野方と共に広長勢を散々に破ったと記述されているが、おそらく南部軍は樺坂峠の戦い直後に鱒沢に到着し在陣、四度目の気仙勢侵攻に備えて翌年春まで遠野領内に駐留後、釜石方面を占領していた伊達勢駆逐の作戦に出陣したものと推測される。 南部家と伊達家・・・伊達政宗の北侵と阿曽沼広長遠野奪還戦 阿曽沼氏の概略は巻頭の頁にて記述しておりますが、戦国期には南部氏の南下攻勢が強まるが、遠野と南部氏の間には斯波氏、稗貫氏、西には和賀氏といった勢力が存在していたこともあって直接的に遠野阿曽沼氏を圧迫する事態ではなかっと思われます。阿曽沼氏が南部氏の脅威に触れるのは天正年間からで名族斯波氏が南部信直によって滅ぼされた頃からで、それでも稗貫氏、大迫氏といった諸氏が隣接していたこともあって、直接的に圧力を受けるといった強い脅威ではなかったかもしれません。 むしろ、南境で隣接する葛西家の脅威が大きいものとされてきました。史実でも何度か葛西氏による遠野侵入があったとみられますが、なんとか撃退或いは一時的に葛西氏影響下となったりしているようです。 阿曽沼第13代、広郷は葛西氏江刺領へ侵攻したり、逆に攻め込まれたりという内容も存在しますが、外交的には葛西氏寄りの関係を重視していたと思われます。また葛西氏の背後には伊達政宗の影も見え隠れしており、むしろ伊達氏の強大な力を見越してのことかもしれません。ところが豊臣秀吉による奥州仕置にて葛西氏は改易、広郷自身も改易になりかけた場面ではあったが南部氏傘下の一土豪という立場に置かれ、その後は何かと南部氏からの圧力、干渉等が頻繁で、かえって南部氏との関係を嫌ったとされ、旧葛西領を拝領した伊達氏との関係構築に勉めたといわれておりますし、広郷の後を継いだ広長もまた伊達家との関係強化を唱えていたともいわれています。 しかし、実質は南部氏傘下の一領主であり、以前から燻っていた一族、家臣との確執が表面化してくると鱒沢氏といった一族は、主家を通さず直接南部氏と通じたり、接触があったりとしだいに分裂の方向へと歩むことになります。南部氏はいずれは遠野地方の直接統治を目論んでいたものと思われますが、まずは阿曽沼主家と反目する一族を懐柔してこれら反勢力を援助して遠野直接統治へ結び付けたいと策謀を練り、それが鱒沢、上野両氏による謀反となったという見方がされております。 一方、伊達氏では、大崎氏、葛西氏といった広大な旧領地を得て、遠野と南境で接することになりますが、戦国時代を駆け抜けた独眼竜の異名を持つ伊達政宗は、豊臣から徳川へと天下情勢が移り行く時代背景の中、その混乱に乗じて領土拡張の野心が再燃したともいわれています。領内には奥州仕置で没落した諸家の浪人が多く居り、関ケ原の戦いでの混乱は奥州にも波及し、この混乱の隙をつく策謀は北隣の南部氏へ向けられていたのは史実でも周知のとおりで、これら浪人は和賀氏、稗貫氏、葛西氏、大崎氏といった没落諸家の浪人が多数であり、和賀郡、稗貫郡出の旧臣達がこれら混乱期に乗じて旧領回復に軍を興した背後には伊達政宗の援助があったのはほぼ間違いのないものとされています。 南部領となった和賀郡、稗貫郡を旧領主、旧臣達が制圧したあかつきには、徳川家に取り入り、領主として復権を認めさせるといったものが和賀、稗貫旧臣達と取り交わされていたものと推測されますが、その後は伊達家の影響下に置き、或いは傘下に治める方向、さらに徳川家により復帰が認められない場合は伊達家がその鎮圧に乗り出し、その戦功により伊達領とすること、または一部を拝領との野心も見え隠れしており、伊達家旗下の軍勢の動きはほとんど認められず、すべて浪人部隊を編成させていることからも、もしもの場合は、単なる一揆、反乱として済ませようとする逃道をつくっている。 阿曽沼広長の遠野奪還も和賀氏といった旧領主等の反乱と同様の理由にての援助とみられ、伊達政宗は奥羽山脈東側にて東西にわたってこれら没落諸家復権の戦いを援助していたことになります。 しかし、南部氏も北奥羽で戦国時代を戦い抜いたきた強者で、逆に和賀の乱を鎮圧、遠野方面も気仙勢敗退、さらに釜石を占領していた伊達勢も早々と自領に引き上げると、南部利直は徳川家康に伊達政宗の野心的策動を訴えると、徳川家もそれを認め、伊達政宗に厳しくその責を問うと、流石の政宗も八方弁解に走り、仙台にて庇護していた和賀の乱の首謀者7名を切腹させ、その首を南部家へ送り届け、表向きは領内潜伏の謀反人を捕縛して処分したというものだったと推測され、ひとまずは事件は落着した形となり、これに併せて阿曽沼広長に対しても今後の援助を打ち切りを誓言したので、広長の遠野復帰への夢はあきらめざるをえないものとなった。 しかし、伊達政宗はその後も水面下で、遠野小友の金山へ、やはり葛西等の旧臣達を送って金採掘や金山を占拠するといった行為を遠野南部氏が入部する寛永年間まで続けていたとされています。 |