

| 宇夫方氏 | 宇夫方広房 | 下野国御家人阿曽沼一族にして、文治五年遠野郷地頭職となった阿曽沼広綱の代官として宇夫方広房は遠野に下向し以後主家が遠野へ本格的に移るまで宇夫方氏は約二百年間、実質的に遠野を治めた。 宇夫方氏は武力による統治よりも婚姻などによる平和的手段にて着実に遠野統治を完成させ、一族を主要な地域に配したとされ、主家が本格的に遠野統治に乗り出した際には非協力的だったとされている。 主家の統治が進むにつれ徐々に力が弱まっていったとされ弘冶年間、葛西氏の大挙しての遠野侵攻があり居舘の西風舘が攻められ宇夫方広本をはじめ長男、次男も戦死し著しく家門が衰えたとされる。辛うじて三男、広久が逃げ延びるも達曽部氏の庇護で命脈を保つのがやっとだった。 慶長年間、主家転覆を目論む鱒沢・上野諸氏の誘いを受けるも広久は十四代広長に走り、近在に身を隠していたが鱒沢・上野諸氏没落後は谷地館に帰参し長子、宇夫方広道(清左衛門)は八戸氏(遠野南部氏)に仕えた。 |
谷地舘 西風舘 (現遠野市綾織町) |
| 高屋氏 | 高屋八郎 | 高屋八郎・高屋氏は下野時代からの家臣で阿曽沼初代広綱の側近であったという。温厚な人柄で知識人であり、代官として遠野へ下向する宇夫方広房の片腕として随伴した。 | |
| 斎藤氏 | 斎藤右衛門 | 建武年中の人・六代朝兼の補佐役として活躍、角懸事件の解決に活躍したという。 | |
| 角懸氏 | 角懸左衛門 | 白懸或いは面懸とも記されている。 阿曽沼五代、朝綱は吉野南朝に出向いていたため、子の朝兼の補佐役を角懸左衛門に命じた、しかし、主人の傍らに仕えるがために威光を示し、また若年の朝兼を軽んじる振る舞いなどがあり謀殺されたともいわれている。角懸事件参照 |
高舘 〜建武年中 (現宮守村下鱒沢) |
| 宮森氏 | 宮森左近 | 宮森氏は阿曽沼統治以前からの土豪ともいわれている。 阿曽沼当主に代わって下向し威勢をもっていた宇夫方氏(宇夫方広光の娘)と婚姻関係となり阿曽沼一族(宇夫方)となった・・九代光綱時代。 左近の子、宮森主水は宝徳年間、葛西氏臣・金成政実の遠野侵入に際して宇夫方守儀籠る谷地舘に達曽部氏とともに援軍に駆けつけ金成政実を討ち取り敗退させた。 慶長年間、主家阿曽沼広長が気仙落ちすると、上野広吉に攻められ一族四散したといわれる。 |
神成舘 三百石 (現宮守村下宮守) |
| 達曽部氏 | 多田光俊 (達曽部孫太郎) 達曽部民部 達曽部兵庫 |
達曽部氏は下野から下向した一族ともいわれているが、和賀氏系統の多田氏の一族ともいわれている。 多田光俊・・・後に達曽部光俊、後継が絶たれていたが宇夫方親定の子、定行が養子に入り、達曽部民部と名乗り五代朝綱・六代朝兼に仕える。 なお、達曽部民部(孫七郎定行)は実父、宇夫方親定とともに南朝側として阿曽沼主家名代として北畠顕家軍に加わり上洛途上戦死したとも伝えられているが定かではない。 達曽部氏は宝徳年間、葛西氏臣金成氏が宇夫方氏居舘、谷地舘来襲時には自領をあげて援軍を繰り出して金成勢を大いに敗走させている。 |
達曽部舘 (現宮守村達曽部) |
| 栃内氏 | 栃内兵部 | 江刺氏の出といわれる兵法者。土淵の栃内に居たが後に西風舘に移り住いした。 | 西風舘 (現遠野市綾織町) |
| 大槌氏 | 大槌孫三郎 大槌孫八郎 |
大槌氏は阿曽沼一族或いは宇夫方一族ともいわれ三陸沿岸の大槌を領した。 阿曽沼八代・秀氏時代、気仙の岳波太郎と呼応し遠野へ攻め入るも三戸の南部守行が遠野側に援軍として来遠し遠野侵攻軍は敗退、大槌城に籠り降伏。(大槌孫三郎は主家に代わって遠野統治の野心があったという・・・南部守行を大槌城にて戦死させるも利あらず降伏) その後、阿曽沼宗家に謝罪し以後主家に忠誠を誓ったとされ、慶長年間、大槌孫八郎政貞は主家阿曽沼十四代広長が遠野を追われ遠野奪還戦には広長に加勢した。阿曽沼氏没落後は南部氏傘下となったが陰謀により謀殺された。 |
大槌城 (現上閉伊郡大槌町) |
| 沢村氏 | 沢村圖詳 | 支族大槌孫三郎の兄・・・ | 角城舘 (現遠野市土淵町) |
| 日渡氏 | 日渡中務 日渡玄淨 |
阿曽沼一族・中務の子、日渡広家(玄淨)は慶長年間における主家謀反軍に抗して日渡舘を攻められ戦死した | 日渡舘 (現遠野市附馬町小倉) |
| 駒木氏 | 菊池豊前 駒木隼人 |
駒木地方を領していた菊池豊前広通、後に駒木氏を名乗る。 駒木隼人、豊前の子とも伝えられているが若干17歳にして気仙より旧地奪回を目指す阿曽沼広長軍との赤羽根峠の戦いに参加する。また、盲目であったが兵法に通じていたといわれ鱒沢氏の参謀を務めたという。(代々豊前を名乗っていたのか?隼人は先代の豊前なのか?)南部氏に仕えるが領地は没収されるも新たに盛岡南部藩士となりその命脈を保った。 |
八幡舘 永正年間 〜慶長年間 (現遠野市松崎町海上) 天正年間の説もある。 |
| 宮澤氏 | 菊池成景 | 天正年間〜江戸初期の人・主家没落後、南部氏より千石を拝領するも没落した。後に宮澤姓を名乗る | 臼舘 天正年間〜 (現遠野市青笹町) |
| 板澤氏 | 板澤平蔵 | 板澤平蔵、菊池左近の長子・菊池又市郎。上郷板沢を領し五百石。広長に仕え忠孝に励んだが上野氏に従い赤羽根峠にてかつての主人、阿曽沼広長率いる気仙軍と戦い、戦死。遠野南部家臣、板沢氏はその末裔か? | 板澤舘・大洞舘 (現遠野市上郷町) |
| 松崎氏 | 松崎監物 | 天正年間・横田城の東北、松崎舘主。主人広長旗下の侍大将として最上の役に出陣、しかし鱒沢、上野氏といった宿老が広長に対して謀反し五輪峠に伏兵が配されていると知ると気仙の世田米氏を頼る広長と行動を共にする。失地回復を目指す広長軍の一方の実戦部隊大将として遠野奪還戦二度目の赤羽根峠の戦いにて奮戦及ばず戦死。 | 松崎舘 天正年間 (現遠野市松崎町松崎) |
| 世田米氏 | 世田米修理 | 一説には阿曽沼一族ともいわれている。気仙郡世田米・有住の西村地方を治めていた。娘は阿曽沼十四代広長室。気仙地方は葛西氏の所領であるが気仙地方を治めていた葛西氏家臣は反葛西宗家派であり反目していたとされる、その隙に乗じて阿曽沼一族がその一部を領有していたと推測できる。また葛西氏に臣従し仕えた一族があったかもしれない、後に葛西氏に代わって伊達氏の配下となり、遠野奪還を目指す広長に対して援助を行っている。 | |
| 興光寺氏 | 興光寺靱負 | 天正年間、阿曽沼氏重臣興光寺氏、舘は横田城西南に位置し本城に最も近距離にあり、松崎舘・海上の八幡舘を手に取るように見える場所にあった。興光寺靱負は広長に従い最上の役に出陣、赤羽根峠の戦いでは松崎監物と共に一方の侍大将として奮戦するも戦死する。 | 興光寺舘 天正年間 (現遠野市松崎町光興寺) |
| 平清水氏 | 平清水景光 平清水駿河 新谷出雲 |
旧姓菊池氏・・菊池景光・後に平清水を名乗り小友平清水舘を築く 平清水平右衛門景頼(駿河)、広郷・広長、二代に仕え阿曽沼一、二の剛勇の士・小友村平清水舘主。鱒沢・上野の誘いに応じ広長に対する謀反に加担、広長最後の遠野奪還戦となる小友境の樺坂峠の戦いにて奮戦し広長軍を敗走させる働きをみせた。 南部氏より千石を賜わるも陰謀により切腹。絶家 新谷出雲(帯刀)・・平右衛門の弟。兄平右衛門が謀反に加担するや父、景光とともに新谷舘に籠り親子・兄弟の縁を切り中立の立場をとったとされる。後に遠野南部氏に召し出され小友勤番・金山奉行となった。六十石 |
平清水舘 天正年間 新谷舘 (現遠野市小友町) |
| 細越氏 | 細越与惣 細越与三郎 |
細越与惣・・天正年間、阿曽沼広郷による江刺氏岩谷堂攻めにて利あらず敗走する阿曽沼勢の殿を務め討ち死にしたといわれている。 細越与三郎(平清水舘主・菊池景光三男)細越氏養子となる |
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| 奥友氏 | 奥友喜左衛門 | 奥友舘主・菊池喜左衛門・・小友氏ともいわれる。三百石 樺坂峠の戦いにて平清水駿河に与力して戦功があった。 南部氏に仕え大阪の陣に従軍 |
奥友舘 (現遠野市小友町) |
| 鱒沢氏 | 別頁に詳細有 鱒沢舘(現上閉伊郡宮守村上鱒沢)鱒沢守親築 |
| 上野氏 | 別頁に詳細有 谷地舘(現遠野市綾織町)宇夫方氏弱体により舘主となる |
| 平倉新兵衛 | 平倉村の足軽頭、遠野奪還を目指す阿曽沼広長との戦い、上野広吉に従い赤羽根峠に出陣し戦死。 |
| 熊谷安右衛門 | 世田米氏臣にて広長夫人の付人。阿曽沼宿老等の謀反により上野広吉に捕まり斬られたとも、討ち死にしたともいわれる。70歳 |
| 孤崎玄蕃 | 釜石孤崎に居たが後に附馬牛に住まいした。 |
| 大野源左衛門 | 日渡玄淨の臣、謀反軍に抵抗し敗色濃厚となった阿曽沼重臣、日渡玄淨を白布に包み、東禅寺に葬るためと偽り脱出を図ったが白布ごと刺され玄淨は死んでしまう、そのまま東禅寺に葬ることになってしまい大野はその後行方知れずになったとも、討ち死にしたとも伝えられている。 |
| 芦崎氏 | 鱒沢守親に仕え鱒沢家家老。 芦崎刑部・・・鱒沢広勝に仕えたが鱒沢家絶家の後は浅沼姓を名乗る。遠野南部氏に仕えた。 |
| 松田与右衛門 | 紫波の人・鱒沢広勝の妻は斯波一族の出でその付人として鱒沢氏に仕えた。 |
| 十二箇所弾正 | 志和郡の土豪の出。上野広吉の娘を娶っていたとされ、失地回復を目指す阿曽沼広長勢との戦いに備え加勢のため手兵を率いて赤羽根峠へ出陣。 戦いは上野方(遠野)が勝利するが、弾正は兜を忘れたため、上野広吉に借用を願い出るが、広吉は戦場に兜を忘れるとは武人にあるまじき行為と叱責したという。 娘婿を強く叱った広吉であったが思い直し、弾正に兜を貸し与えようとするも弾正はそれを断り赤羽根峠の戦いにて戦死したと伝えられている。 |