遠野郷を取り巻く諸家・諸氏(勢力)或いは影響力を与えた勢力について簡単に紹介します。

葛西家
牡鹿・本吉・胆沢・江刺・磐井・気仙・葛西七郡(現岩手県江刺以南〜宮城県北上川流域・宮城県三陸沿岸〜岩手県釜石付近までの沿岸を領する分限30万石とされる奥州における大族)
葛西氏 平氏の流れ・葛西三郎清重、下総国葛西郡を領していたが、文治五年、奥州平泉藤原氏攻めの戦功により奥州気仙・牡鹿・本吉・胆沢・江刺の各郡を得、葛西清重は子の朝清を奥州経営の任にあてたとされている。葛西宗家による本格下向は四代清経の頃、鎌倉末期と伝えられている。
初期の本拠地は石巻城(日和山)。
なお、葛西清重は奥州における御家人惣奉行という位置付けであった。
南北朝期は南朝方として活躍し六代清貞は石巻城を南軍の基地とするべく尽力するも南軍勢力が衰えその意図は挫折したといわれている。
その後、葛西氏は北朝側に転じている。
室町中期〜後期は隣国大崎氏に通じる家臣団と葛西氏当主派に大きく分かれ国を二分して争った、しかし親大崎派が軍事強国、伊達氏を頼み伊達成宗の子・宗清が葛西第十三代を継いだことで親伊達派と反伊達派の二大勢力と変わり双方は領内抗争に明け暮れた。
永正年間には反伊達家勢力の連合軍が決戦に破れ、桃生、登米郡も完全に勢力下に組み込まれ十五代晴胤時代、石巻から登米郡に本城が移され寺池城が本拠地となる。
葛西晴信(葛西氏第十七代)
戦国大名、最後の当主・・・晴信が宗家を継いだ頃は葛西氏にとって内憂外患時代といわれ外にあっては隣国大崎氏(大崎義隆)と争い、内にあっては巨大化した家臣団の抗争鎮圧に明け暮れるといった具合であったが、特に戦国後期、北奥羽をほぼ制した南部氏の南下攻勢が強まり隣国の和賀氏、北の斯波氏、稗貫氏、遠野阿曽沼氏を次第に圧迫しはじめ大崎氏のみならず南部氏に対しても迎撃体制を整えなければならず枚挙にいとまがない時代であった。
しかし、天正十八年、豊臣秀吉の小田原の陣には、領内争乱の鎮圧に日時を費やしたとも、豊臣秀吉の天下統一という大局観を甘く見ていたともいわれ、ついに所領没収の憂き目にあう。
豊臣仕置軍に対し華々しく抗戦し、武将としての最後を飾ったと伝えられているが、実は加賀を流浪し64歳にて彼の地で没したのが真相である。
江刺氏 葛西氏第二代・朝清の子、清任が下向し、和賀郡との境、門岡の地に拠って江刺氏と名乗ったとされ、岩谷堂に城を築いたとされている(岩谷堂城)
江刺氏は北上川の水運にて家門が栄え、南北朝期には北朝側となり南朝の葛西宗家と度々争っている。その後家門が衰えた時期もあったが、宗家より清泰を迎え、さらに近隣の岩淵・長部・黒沢の諸氏と婚姻関係を結び勢力を盛り返したとされる。
永正年間に、宗家が伊達家から宗清を迎えたことにより反伊達勢力に組したと思われる。
江刺氏は葛西領北端に位置し、戦国末期、南下する南部氏の矢面に立たされ天文年間には進退きわまって南部氏側に付き和賀攻めでは南部氏支援の立場を取らざるをえない場面もあった。
奥州仕置では宗家と共に封土を失うも江刺三河胤虎、嫡子の兵庫重俊と大崎・葛西一揆軍に加わり重俊は戦死、重俊の弟・重隆が後を継ぎ田瀬方面に亡命してたともいわれ、浅野長政のとりなしで南部氏に仕え2000石を授かった。
和賀氏
北上川中流の雄・中世北奥羽の歴史を左右するほどの実力があったといわれている。
和賀郡全域(北上市・和賀郡)
和賀氏
六万八千石
和賀氏の祖は源頼朝の遺児だったとよく書籍等で紹介されていますが、信憑性の薄いものとの解釈されている。和賀氏の所見は「吾妻鏡」建長八年(1256)の条に奥州における地頭二十四人の中に「和賀三郎兵衛尉」と「五郎右衛門尉」なる人物がみえる、おそらく兄弟か宗家と庶家の関係ではないかと推測され、すでに奥州和賀郡に所領があったことが伺える。
もう少し詳しく出目についてみると小野姓「中条法橋盛尋」から始まり、その二・三代後に「中条出羽二郎家平」「苅田右衛門三郎義行」の名がみえ、和賀氏を称したのは三郎義行、この義行が奥州苅田郡から和賀郡に移動したと考えられる。
中条家を継いだのが兄と思われる二郎家平との見解もある。中条氏は源頼朝から和賀郡を授かっていた可能性が高いともいわれている。
その後、和賀次郎左衛門尉泰義が和賀郡惣領であるのがみられこの時代に一族の庶流が郡内各地に分地され独立したとの見方がされている。
和賀氏には二子城に居たとされる宗家・鬼柳和賀氏・岩崎和賀氏・西和賀氏・小田島和賀氏・秋田仙北の本堂和賀氏の存在が確認できる。
南北朝期には一族それぞれ南朝・北朝に組した経緯がありますが、北朝には宗家、南朝には庶流の一族が属していたと思われる記録もあり、この和賀一族の動向が北奥羽における南北朝戦乱をも左右することもしぱしばあったとみられる。
いずれにしても南部氏同様、中世における和賀氏については謎の部分が多く、後の戦国時代には多田和賀氏が宗家的立場となり郡内に一族が割拠していたと思われる、時は下って戦国期は南下する南部氏と度々争い一族間の状況は一層複雑なものとなっていたと思われる。
天正十八年、小田原参陣に赴かなかった和賀義忠は奥州仕置にて葛西氏・稗貫氏等共に所領没収となったが同年に起こった没落諸氏等による大崎・葛西一揆に加わり豊臣秀吉により派遣されていた木村吉清を討ち二子城を奪還するも蒲生、伊達軍に敗れ和賀義忠は秋田仙北の本堂和賀氏を頼り逃走途中、野党とも土民に殺害されたともいわれている。
和賀郡は南部信直に与えられ南部領となる。
さらに慶長五年、関ヶ原の余波は奥州にも争乱を招き、和賀義忠の弟・和賀忠親は伊達領胆沢に隠れ住んでいたが伊達政宗の援助により兵をあげ花巻鳥谷崎城を攻撃、しかし南部勢に破れ岩崎城に撤退、篭城したがほどなく南部勢が来襲し、仙台に逃れるも重臣七人と共に国分寺にて自刃したと伝えられている。
家臣は南部氏、伊達氏に仕えたものも多い。
阿曽沼氏トップ
稗貫氏
現在の岩手県花巻市、稗貫郡(石鳥谷・大迫)を領していた、当初は一族が分地していたと思われるが各時代の戦乱にて宗家が滅亡あるいは没落している
藤原姓・山陰中納言為家系(諸説有り)
稗貫氏 稗貫氏は鎌倉末期には郡内に存在していたとみられ、南北朝期には稗貫郡内に複数の稗貫氏が領地を分かち合っていたようである。
文治年間(1185〜1189)に畠山氏系<葛岡・大瀬川・大迫・八重畑>常陸氏系<畠牧・萬丁目>中条氏系<根子・瀬川・太田> この三家がそれぞれ統治していたとみられる。
畠山氏は源平合戦にて活躍した畠山氏といわれ源頼朝に早期のうちに滅ぼされている、その後は河野通信の孫、通重が継いだと伝えられているが確証はない。
南北朝期は中条氏系と常陸系の存在が確認されるが中条氏系は和賀氏と同族、常陸氏系は伊達氏と同族で天正年間に惣領を継いだのは常陸系稗貫氏である。
その他に出羽守一族・大和守一族などもあったとみられる。(戸貫出羽前司という武将が南北朝期に存在していたといわれ、戸貫とは稗貫のことでこの人物は中条時長といわれる)
鎌倉末期〜南北朝期・稗貫氏(中条氏)は河村又次郎・多田貞綱・南部師行と共に津軽地方の北条氏残党を討つも南北朝時代は北朝に属したため上記の諸将に攻められ中条系稗貫氏は滅亡したとの見解もある。(興国四年)
それでも以後隣接の和賀氏、斯波氏等と小競り合いはあった思われるが、よく封を守り存続し戦国期を迎える、特に戦国末期は南部氏の南下攻勢が厳しい状況となり北隣の斯波氏が南部家随一の猛将・九戸政実が元亀二年三月、軍を南下させ厨川にて斯波氏を破り志和(紫波)地方を一気に席捲し、次は稗貫領をも凌駕すると思いつめ斯波氏と南部氏との和睦調停を勧め受け入れられている、しかし、斯波氏は内紛が起こりその隙を南部信直に衝かれ天正年間に滅亡してしまう、北からの脅威がまさに目前という時に運命の天正十八年、小田原に参陣しなかった23代稗貫広忠(和賀氏から養子・和賀義忠弟)は所領没収となり、兄の和賀義忠と共に大崎・葛西一揆に加勢するも破れ、伊達領に逃れ程なく亡くなったといわれる。
大迫氏 稗貫一族、為家三男の家系?、遠野と紫波の間、大迫を代々継承していた。
大迫右近、奥州仕置にて主家稗貫氏と共に所領没収となるが九戸政実の乱にて九戸方へ加勢するが仕置軍の大軍勢を見るや戦線離脱し大迫に逃げ帰ったと伝えられている。
その後、一族家臣は四散し、右近と長子、又三郎・次子、又右衛門共々江刺に逃れ伊達政宗と通じ大迫右近は現地にて病没。
慶長6年、和賀の乱に乗じて伊達氏の援助の元、旧領を回復する軍を興し旧臣の多くも駆けつけその数300ともいわれ、大迫城を攻撃し落城させる。しかし、和賀勢の鳥谷ヶ崎城攻めが失敗に終わると伊達勢が兵を引き、大迫兄弟は大迫城を出奔したといわれ、和賀勢の籠る岩崎城に入城するも南部勢との戦いで和賀勢は破れ去り、大迫又三郎は討死にしたといわれている。
斯波氏
足利一族・尾張斯波氏・紫波御所氏ともいわれ大崎探題(大崎氏)が西の最上氏・北の斯波氏を配したものといわれ、高水寺城を居城とし南下する南部氏と激突する。
斯波氏 南北朝期の人、斯波家長が奥州下向し志和(紫波)を領していたとされているが、志和には尾張弾正左衛門尉の所領であった記録があり、斯波家長は足利一門の尾張系ということで志和との関係は何かしらあったものと推測はできる、志和御所氏(斯波)といわれた一族の下向は永正年間との見方があり、紫波郡に活躍した斯波氏は後者であるとされる。
奥州探題・大崎家兼の諸流と考えられ大崎氏により北の鎮台として志和(紫波)に下向したものとされている。
当初は北上川東側に勢力を張り大巻城に居て、鎌倉期からの豪族、川村氏を圧しその勢力下にし、さらに岩手郡にも勢力が伸び、岩手郡地方に勢力浸透を図る南部氏と接触しながらも岩手郡在住の地侍達を勢力に取り込むほど武威を誇ったといわれる。
南部氏と激突するのは天文年間からで南部高信(石川)・九戸政実の南部勢と不来方(盛岡)を境に対決が何度か続く、南部氏配下の不来方を治める福士氏は斯波氏方に降りる場面もあり滴石(雫石)方面や玉山方面も斯波氏が一時勢力下に置くほど、南部氏とは互角の戦いを繰り広げていたが、元亀二年、南部家の猛将・九戸政実が南下し厨川にて斯波氏は大敗を喫し稗貫氏の仲裁で和睦となり九戸政実の弟・吉兵衛を養子とする。
しかし、結果的には内部分裂が生じ、天正16年、南部氏を継いだ南部信直が志和に進出、斯波氏臣岩清水氏が手勢300を率いて迎撃するも他の家臣達は日和見態度だったとされ、守備兵の薄い高水寺城が南部勢に攻略され、ここに足利一門の名族・斯波氏は滅亡する。
「斯波民部大輔家政(詮元)」の頃。
雫石御所や猪去御所と呼ばれる地に支族を配したとされているが、最近の研究では信憑性は薄いといわれている。