○ 山梨県南部町と南部氏
甲斐源氏は名門清和源氏の一つで、清和天皇の皇子貞純親王 の子である経基王 に始まっており、経基王が朝廷から「源」の姓を賜って臣下の籍に入り、源経基となったのが清和源氏の始まりだといわれています。この経基から五代目が源義家で、その弟に新羅三郎義光 がいます。義光が左兵衛尉 という官職に就いていたときに、後三年の役が起こり、義家が苦戦していることを知った義光は、官職をなげうって奥州に応援に駆けつけ、兄を助けて乱を平定しました。
義光には数人の子があり、そのうち二人が義光が常陸介 として在任中に常陸(茨城県)に住むようになりました。長男義業 は後の佐竹氏の先祖になりましたが、次男の義清 は常陸で罪を犯し、その子清光とともに甲斐に追放されたと言われます。清光は、祖父の義光が住んだ巨摩郡に居を移してこの地方に勢力を伸ばし、後の甲斐源氏の発展の基礎を築きました。このため、新羅三郎義光を「甲斐源氏の祖」と称することになりました。
清光の子は十五人もいたと言われ、その子達が甲斐国内の各地に分散して館を構え、それぞれの地名を姓とするようになりました。南部光行の父加賀美遠光 もその一人で、加賀美荘(現在の山梨県南アルプス市)に館を構えました。
加賀美遠光には四子がいて、三男の光行は南部(山梨県南部町)に居を構えたことから南部三郎光行を称し、南部氏の祖となります。光行については、吾妻鏡に将軍頼朝の随兵を勤めたことや上洛の供をしたことが記されています。南部氏関係の諸書によると、光行は将軍頼朝の京都への供をして帰った翌年(1191年)に鎌倉の由比ヶ浜から兵船で奥州に向かい、12月末に八戸浦に到着し、翌年、平良ヶ崎 (青森県南部町)に城を築き、その後のことを指示して糠部 (今の青森県の東半分と岩手県北部)を発って鎌倉に帰ったと記されています。光行は、南部史要(原敬編纂)などによると1215年に鎌倉にて亡くなり、葬儀は甲州にて行ったと書かれています。甲州で葬儀をしたとすれば南部で行われたと思われますが、南部には光行の墓といわれるものがありません。昭和57年に南部町で建立した南部氏の供養塔のある浄光寺の墓石群は、南部氏がこの地を治めていたときの一族家中衆の墓であると伝えられています。
光行の子については資料によって諸説ありますが、光行の後は実光が継ぎましたが、鶴岡八幡の別当が将軍実朝を殺し鎌倉が大騒ぎになったので一族を率いて糠部に向かい、兄弟に領地を分かちました。行朝 を一戸に、朝清 を七戸に、宗朝 を四戸に、行連 を九戸に、実長は甲州に留めて波木井 (身延町)に置いたと南部史要に書かれています。
南部氏は、南北朝期までは奥州と甲斐の間をしばしば往来したものと考えられますが、戦国期に入り武田氏が隆盛を極めると、南部氏の消息は南部郷からは不明となってしまいます。