南部藩の家紋「向かい鶴」南部藩の家紋「向かい鶴」

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 岩手県遠野市と南部氏
 1189年、奥州平泉藤原氏滅亡後、源頼朝は鎌倉御家人の一人阿曽沼広綱( あそぬまひろつな) を遠野十二郷の地頭職に補任しました。しかし、広綱は本領・佐野(栃木県)を離れることがなく、家臣・宇夫方広房( うぶかたひろふさ) を代官として派遣し、遠野領の管理にあたらせました。遠野領は、代官宇夫方氏の管理に任され、建保年間(1213〜1219年)に松崎護摩堂( ごまどう) に横田城(館)を築いたと伝えられています。歴史的に実在感のある最初の遠野領主は阿曽沼氏九代秀氏( ひでうじ) であり、1437年に葛西・大槌連合軍に襲撃され苦戦したと伝えられています。この襲撃に対し秀氏は、三戸南部氏十三代南部守行に救援を求め、葛西・大槌勢を敗退させましたが、この戦いのさなか守行は戦死したといわれています。
 天正年間(1573〜1592年)の初めに阿曽沼広郷( ひろさと) は、横田城を鍋倉山( なべくらやま) へ移築し城下町も移しました。広郷が造営した城下町は、ほぼ現在の遠野市市街地の輪郭に近いものでした。1590年、この広郷のもとに豊臣秀吉から小田原攻めの参戦命令が届きましたが、領内には不穏な動きが多く、広郷は遠野を留守にして小田原攻めに参陣することができませんでした。その後、秀吉による奥州仕置きにより阿曽沼氏は所領を没収されますが、秀吉の家臣に同族の蒲生氏郷がいたことにより三戸南部氏二十六代信直の家臣になることによってかろうじて廃絶を免れました。1600年の関ヶ原の合戦には、広郷の嫡子広長が三戸南部氏二十七代利直に従って山形に出陣しましたが、利直は旧和賀( わが)稗貫( ひえぬき) 領家臣の反乱のため帰国しました。広長は山形に留まり戦っていましたが、広長留守の遠野領では鱒沢広勝らによる政変が起こり広長は遠野を追われ、鎌倉時代から四百年続いた遠野・阿曽沼氏の歴史は終わりました。
 1601年、南部利直は遠野を正式に南部領に併合して城代支配領とし、併合に功のあった鱒沢氏らを家臣や城代にしましたが、領民は主家転覆の陰謀を憎んで従おうとしなかったといわれます。支配者への信頼は容易に回復せず、約30年間に及ぶ城代治下の遠野は無政府状態に近く、治安は乱れていました。
 
 1627年、八戸の根城南部氏二十二代直義は、南部利直から遠野・横田城への移封を命じられました。これは、八戸氏の権威と家格により横田城下の不穏を封じ、伊達藩との境界警護の任にあたれというのが理由でした。
 利直は、かねてから八戸地方の直轄支配をもくろんでいたといわれます。しかし、それは八戸氏の廃絶を意味するものであり、1614年に根城南部氏二十代直政が高田城の築城奉行を務める旅先で亡くなるという最初の危機が訪れました。嫡子のない直政の死によって、八戸氏は廃絶の危機を迎えましたが、直政の妻・子々( ねね) (祢々)は二十一代を継ぐことを利直に認めさせ、これが女大名の誕生となりました。利直は、その後しきりに再婚を勧めましたが、子々は剃髪して清心尼( せいしんに) を名乗り、再婚の意志のないことを告げたという逸話が残っています。
 清心尼の根城城主は14年間でしたが、この間、利直は自分の二男子と清心尼の二女子との結婚を申し入れました。しかし、清心尼は、家臣の新田弥六郎直義( にいだやろくろうなおよし) を養子に迎えて次女と結婚させ、二十二代を継がせました。
 横田城に移れという命は、八戸氏存亡に関わる危機でした。直義は、移封を辞退しましたが、それに固執することは利直に八戸氏廃絶の口実を与えることになり、南朝への忠節を家の誇りとする八戸氏の命脈を守るにはあえて利直の命に従うことでした。1627年3月に国替えは行われました。これが遠野南部氏の始まりです。
 遠野移封後の直義は、利直のそばに仕えましたが、1632年、利直死後の南部藩主二十八代重信の下で本藩家老職に就きます。その後、直義に続く代々の遠野領主は弥六郎を名乗り、南部藩御三家(遠野南部家、中野家、北家)の一つとして盛岡城に常勤し、遠野には家老職を置くことが通例となりました。
 直義入部直後は、新領主によって領民の信頼を得ることが治世の課題でした。浪人となっている旧阿曽沼氏の家臣を諸士に取り立て、領民に一揆徒党を厳禁し、領民を扇動したり生活を妨害する者を厳重に処罰し、城代時代からの難事件を解決したといわれます。利直は、遠野領初期の治蹟を評価して直義に「直成敗」を許したといわれ、これが「陪臣にして陪臣にあらず」や「藩中藩あり」という遠野領を言う評言の根拠です。遠野領は、独自の行政組織を持つことや役人等の選任も任されていました。
 直義国替えのときには、横田城奥の院はむしろ敷きであったといわれるほど城下は荒廃しており、諸士屋敷は城廻りなどにわずか28軒が散在するだけで、板戸代わりにむしろを下げ、雨露をしのぐだけのものでした。城下町の造営事業は、直義移封直後に始まり元禄年間(1688〜1704年)まで続きました。
 1674年直義は74歳で没し、二代領主は嫡子義長が継ぎました。義長は、重信に許されて、弟義也に附馬牛( つきもうし) を分割相続し、附馬牛八戸氏を名乗らせました。これは直義の遺志であったといわれますが、当時附馬牛の馬越峠( まこしとうげ) が盛岡方面から海岸に通じる街道の要衝にあったためと思われます。
 1681年の遠野五町(六日町、一日市町、新町、穀町、裏(仲)町)の町屋数は240軒弱でしたが、約100年後には608軒を数えるほどになりました。これは、遠野六度市における内陸と海浜産物の交易中継商業の発達によるものです。遠野六度市は、「入荷千駄出荷千駄( いりにせんだいでにせんだ) 」といわれる賑わいを見せました。
 1868年(明治元年)、戊辰戦争が起こり討幕派と幕府擁護派とが戦う国内戦争に発展し、盛岡藩は奥羽列藩同盟の一員であったことから、同盟から脱して討幕派についた秋田藩を攻撃しました。遠野領主済賢( ただかつ) は、遠野南部家の八戸南部氏以来の勤王を主張して秋田進行に反対したといわれますが、盛岡藩が倒幕軍に敗れると家臣を率いて戦後処理にあたりました。( ) 済賢は、1869年(明治2年)に領主を嫡子義敦( よしあつ) に譲り、二度と世の表に立つことはありませんでした。同年、遠野城下に松本藩兵が進駐し、維新の実相を知らされないままに領民の目の前で横田城が破却されました。1871年(明治4年)、明治政府は遠野地方を江刺県の管轄下に置きました。

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