南部藩の家紋「向かい鶴」南部藩の家紋「向かい鶴」

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・ 八戸藩の誕生
 盛岡南部氏二十八代重直は、後継者を決めないまま亡くなりました。幕府の掟によれば、世継ぎのない大名家はお家断絶であり、1664年に幕府は、掟どおり盛岡南部氏をいったん断絶させ、あらためて重直の弟で七戸家を継いでいた重信に南部藩十万石のうち八万石で家を継がせ、中里家を継いでいた直房に新たに八戸藩を起こさせて残りの二万石を与えました。南部藩の存亡の危機は何とか切り抜けられましたが、盛岡藩八万石、八戸藩二万石のいずれも新しい独立藩として出発することになりました。

・ 盛岡南部藩の動き
 二十九代南部重信は、お家断絶後に新しく生まれた南部藩の藩主として、新田開発を奨励し、山林造成にも力を入れるなど善政を行い、1683年には徳川幕府から新田二万石を加増され、合わせて十万石の軍役に定められました。
 さらに1805年、三十六代利敬( としたか)のとき、幕府から蝦夷地警護松前出兵(北海道)の功績によって十万石が加増され、石高二十万石の大名となりました。しかし、これは現有領地のまま二十万石に加増されたもので、実質収支があがらないのに二十万石相当の軍役を負担することになり、藩財政が窮迫しました。
 1817年には、従来の南部藩の名称を藩主の居住する土地の名を取って盛岡藩に改められました。
 幕末期になると、盛岡藩も幕府方につくか、薩長倒幕派につくか決断を迫られることになります。薩長を中心とする官軍の動きに反発した奥羽各藩は、1868年4月に伊達、上杉藩の主唱のもとに奥羽同盟を結成し、盛岡藩はこの奥羽同盟の側に立って、官軍となった秋田藩と戦いました。明治に改元された9月中旬、奥羽同盟参加の各藩は官軍に降伏し、盛岡藩も9月22日に降伏しました。これにより藩主南部利剛(としひさ)は、新政府によって官位を剥奪され隠居を命ぜられ、石高も20万石から13万石に減らされました。また、白石(宮城県)に転封を命ぜられましたが、これに反対する世論を背に藩の指導者達が維新政府に陳情を繰り返し、盛岡復帰が認められました。このほか敗戦処理として、家老の楢山佐渡( ならやまさど)が戦争責任者として首をはねられましたが、南部氏の存続は認められ、利剛の嫡子利恭( としゆき)が跡目を相続し四十一代藩主となり、藩籍奉還が許されると盛岡藩知事に任命されました。
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