南部藩の家紋「向かい鶴」南部藩の家紋「向かい鶴」

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・ 九戸政実の乱
 1591年、南部氏の一族である九戸政実は、公然と三戸南部氏二十六代信直に反抗します。信直は、八戸政栄などと相談しこれを討とうとしますが、政実も櫛引氏など有力な武士達を集めたためなかなか決着がつかず、信直は豊臣政権に救援を求めます。この前の年に起こった和賀( わが)稗貫( ひえぬき)の一揆と連動した九戸政実の反乱に対し、秀吉は奥羽再仕置の令を発し、総大将を関白秀次として蒲生氏郷、伊達政宗、浅野長吉(長政)など5万人を超える大群で一揆を平定しながら北上し、南部氏や津軽氏などと九戸城を包囲します。5千人あまりの九戸勢は、6万人あまりの大軍に囲まれ九戸城に籠城し奮戦しますが、謀略により城を明け渡し、天下の敵として首をはねられました。
この奥羽再仕置により秀吉の天下統一が完全に終了し、信直は秀吉幕下として豊臣政権を背景に、朱印状に示された糠部( ぬかのぶ)鹿角( かづの)、岩手、閉伊( へい)紫波( しわ)、稗貫、和賀の7郡を支配することができるようになりました。また、落城した九戸城は、名を福岡城と改められ、豊臣政権の出先の城として信直が入城を命ぜられました。

・盛岡築城
 九戸政実の乱を平定した豊臣政権の軍勢が帰還の途に着いた際に、南部信直は浅野長吉から不来方( こずかた)(今の盛岡)こそ南部の本城を置くのに適切ではないかと勧められたといわれます。また、津軽、比内を失ったが、南に和賀( わが)稗貫( ひえぬき)と領地が広がったことから、従来の三戸城も福岡城も所領の北に寄りすぎ、大規模な城下町をつくるには狭すぎることから、信直は移城する覚悟を決めたといわれます。1598年に築城の許可を得ますが、完成を前に信直は福岡城で亡くなりました。盛岡城は、二十七代利直によって完成しましたが、たびたび洪水のため三戸城に帰ることもあり、利直は盛岡、三戸、福岡の三城を居城としていました。
 盛岡城だけを居城としたのは、江戸時代、二十八代重直からであるといわれています。

・根城南部氏の女性当主と国替え
 1595年、根城南部氏十九代直栄( なおよし)が若くして死去します。直栄の父、政栄は隠居していたが健在であり、直栄の弟直政に二十代を継がせます。このとき、直政は九歳、その妻の直栄の娘祢々( ねね)は十歳でした。やがて直政も成長し、1614年に将軍秀忠から越後国(新潟県)高田築城を前田氏や蒲生氏などとともに命ぜられた三戸南部氏二十七代利直は、この直政を名代として高田に派遣しました。直政は大いに働きましたが病気になり、帰国の道中に亡くなりました。後継の子がないため急遽二十一代を継いだのは直政の妻祢々で、女性当主が誕生しました。祢々は、後に尼になり清心尼( せいしんに)と称されましたが、名のとおり清廉、公平な政治を行い、大阪冬の陣には家臣を指揮し新田政広と中館政常を名代として兵を南部利直軍に派遣するなど、領主として立派に任を果たしました。中世から近世にかけて女性の地位が下がってきたこの時期に、わが国最後の女性の領主として、盛岡南部氏の附庸とはなっていましたが、一万二千五百石の領地を治めました。
 1620年、清心尼は一族の新田氏から直義を婿養子に迎え、二十二代を継がせました。直義は、二代将軍徳川秀忠の上洛に際し、利直に従い名代として大役を果たし、利直から信頼を得ました。1627年、豊臣秀吉の朱印状によって新しく南部領となった遠野、花巻の地の政情が不安定であったことからこの地の治安を回復するため、直義は利直から遠野への国替えを命じられます。根城南部氏とともに移住した八戸の人々は、見知らぬ在来の人々と暮らすことになりましたが直義と清心尼の善政により、遠野は平和を取り戻しました。
 直義は、八戸弥六郎を名乗り、後に直栄と改め、盛岡南部の重鎮として活躍しました。
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