南部藩の家紋「向かい鶴」南部藩の家紋「向かい鶴」

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南部氏の歴史
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 南部氏の歴史は、約800年前の初代南部光行から始まり、その詳細についてはわかっていない部分が多くあります。その後の研究の中で明らかになり、それまでの通説と異なる見解が述べられることもありますが、ここでは「私たちのまちと南部氏」(南部首長会議編・平成6年3月発行)をもとに、南部氏の歴史を簡単にまとめています。

南部氏の先祖
 南部氏の遠い先祖は、十一世紀半ば奥州で起こった前九年の役(ぜんくねんのえき)後三年の役( ごさんねんのえき)で戦い、勝利を収めた源義光(新羅三郎義光( しんらさぶろうよしみつ))です。義光の兄は八幡太郎義家で、これが源氏の嫡流となり、その子孫には鎌倉幕府を創立した源頼朝がいます。いっぽう義光は、後三年の役後、常陸介、甲斐守と昇進し、これがきっかけとなって義光の一族は甲斐国(山梨県)に根を下ろすことになりました。
 義光の次男義清(よしきよ)は、その子清光(きよみつ)と共に常陸(茨城県)から甲斐の市川荘に移りましたが、清光は、やがて祖父の義光が甲斐守の在任中に住んだ巨摩郡に居を移し、この地方に勢力を伸ばして後の甲斐源氏の発展の基礎を築きました。
 清光の嫡男光長(みつなが)逸見氏(へんみし)を名乗り、次男は武田信義(のぶよし)と称して後に甲斐守護となります。そして三男遠光( とおみつ)は、甲斐国加賀美郷( かいのくにかがみごう)・小笠原郷等(山梨県中巨摩郡、南巨摩郡一帯)を領し、加賀美次郎遠光と名乗りました。遠光は、源頼朝の平家追討の石橋山挙兵に参加し、甲斐源氏の武将として奮戦し、鎌倉幕府内で確固とした地位を築きました。

三戸(盛岡)南部氏の始まり
 南部氏の初代光行はこの遠光の三男で、富士山の西側の麓、富士川の右岸の南部領が所領であったため、南部氏を名乗るようになりました。南部領は、南部御牧( みまき)といわれる馬の産地でした。
 南部光行が奥州平泉藤原氏攻めで手柄を立て、その功績で奥州糠部郡( ぬかのぶぐん)(今の青森県の東半分と岩手県北部。「ぬかのぶのこおり」とも読みます。)を源頼朝から拝領したと伝えられていますが、それが事実であるかは明らかでありません。光行の子、実光( さねみつ)が三戸南部氏の系統を次ぐことになりますが、実光は、鎌倉四代将軍頼経( よりつね)が上洛する際、根城( ねじょう)南部氏の祖である弟実長( さねなが)と随兵となっていました。この頃、鎌倉幕府の実権は将軍よりも執権北条氏が握っていましたが、糠部郡はその北条氏の領地で、四戸と六戸を除くと他のすべての土地に北条家の被官が地頭代として配属されています。このことから、光行が糠部郡を拝領したということは否定されますが、執権北条時頼( ときより)の信頼が厚く、その臨終の枕辺に三代時実( ときざね)が招かれていたことを考えれば、不明の四戸、六戸が時実の代までに給付された可能性があります。また、南部一の宮である櫛引八幡宮が、甲州から六戸に祭られ、その後四戸に移されたこと、後世四戸、六戸には南部氏重臣が配されたことを考えれば、糠部郡すべてではなくても三戸南部氏の給付地はあったと思われます。

※ 南部光行の糠部郡拝領の伝承
 光行とその家臣達が八戸浦に着き、それから現在の南部町相内の観音堂に到着。やがて熊原川( くまはらがわ)流域に住む人々や現在の三戸町、田子町、南部町の武士達が駆けつけ、光行一行を迎え、仕えるようになった。
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